「ナマエ、」

 事務作業も一区切りついて、時計を見れば、ランチタイムに何分か食い込んだところ。ナターシャが、デスクに顔を出した。ランチボックスを持って、一緒に出る。

 「今日は何?」
 「サンドイッチ」

 職員に解放されているカフェテリアに行けば、自然と耳目が集まる。シールドの花形、アベンジャーズの紅一点。
 ナターシャがいると、いつもこうだ。彼女は忙しいから。長官が特命で単独任務を出すので、本部にいる方が、珍しかったりする。
 けれど、ナターシャは、本部にいるときはいつも私のために時間を割いてくれる。単なる事務員である、私のために。
どうして仲良くなったのかと聞かれると、正直思い出せない。多分、そう大したことじゃなかったんだと思う。

 「一口ちょうだい」
 「いいよ」

 ナターシャにはいろんな顔がある。任務によって、外見を変えてるってこともあるかもしれないけど。
 かき上げた前髪は、大人の女って感じがしてかっこいい。けれど、真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳は、猫みたいで可愛い。ふっくらとした唇は、同じ女から見ても色っぽい。
 けれど、ぐわっと口を開けて食べる様子は、豪快でさっぱりとした印象が強い。今みたいに。

 「ん、おいしい」

 私は、彼女がものを食べてる姿が好きだったりする。

 「そ、よかった」

 笑えば、ナターシャもにっこりと笑った。



 「――ナマエさ、よく話してるだろう」

 でも、ナターシャを一言でまとめるなら、高嶺の花。
 だからこういうことも、珍しくはなかったり。

 「これ、連絡先。連絡するよう、言っておいてくれない」

 名前と所属と、今時古風なメモ書きを握らせて、同僚は去っていく。ちょっとだけ肩を竦めて、仕事に戻る。まあ、どこから見ても平均値なアラサー女子の方が、凄腕スパイより攻略しやすいでしょうけども。

 「これ、連絡ください、って」

 任務から戻って、顔を出したナターシャにメモ書きを渡す。彼女はざっと一瞥して、ポケットにそれをしまった。

 「行きましょ」
 「うん」

 ランチボックスを持って、部屋を出る。



 休日に、街に繰り出すなんて久しぶりのことだ。

 「Ms.ミョウジ。こっち」

 しかも、男の人とだ。眼鏡のエンジニア職だという彼も、S.H.I.E.L.D.の人間である。

 「Ms.#ミョウジ#、ほら、行っちゃいますよ」
 「……あの、ナマエでいいです」

 礼儀としてそう呼んでくれているのだろうけれど、どうにもむず痒い。今日ナターシャとデートをしている例のメモ男にしても、ファーストネームで呼んでくる。うちの職場ではみんなそうなのだ。
 彼を見上げると、彼はにっこりと笑って、僕も名前で呼んでください、と言った。

 事の起こりは昨日だ。メモ男が彼を連れてきて、紹介された。帰り際に連絡先を聞かれて、その日の夜に、今日の誘いが来た。『友人同士、様子を見に行きませんか』と。
 友人の、それもナターシャのデートの尾行だなんて、御免被りたかったのだが、彼もメモ男に頼まれたのだとか。なんで?と思ったけれど、ひとりで尾行して不審者になったら困るんですよ、と切に説得されて、今に至る。
 少し先を歩く、ナターシャとメモ男は、それらしく腕なぞ組んだりして、それをぼんやりと眺めていたら、手を握られていた。そこであれ?と思ったのだけれど、こちらもデートらしくした方が自然でしょう、と言われて、釈然としないまま頷いた。こちとらティーンエイジャーではないのだ。胸のトキメキより不信感が浮かんだ。
 気づけば、ナターシャ達の姿は計画的に見失っており、私は、彼に連れられてカフェに腰を落ち着けていた。

 「君が好きだ」

 手を握られて、まっすぐにこちらを見つめる彼の顔を見つめ返す。地味だが、軒並みのイケメンだ。
 ため息をつきたくなるのを堪える。プライベートも仕事も充実している。強いて言うなら、確かに最近色恋沙汰とは無縁だった。けれど、もうちょっと別のアプローチがあったんじゃないだろうか、と思う。ナターシャに抱く必要のない罪悪感まで持ってしまって、なんだか、疲れてしまった。
 私の顔から、旗色の悪さを察したのか、握られている手に力がこもる。痛い上に、ちょっと汗かいてる。ひええ。

 「別に返事は今すぐでなくとも構わないんだ」
 「いや、あのそういうことじゃなくて…」
 「ファーストネームを許してくれたじゃないか」

 ぎょええ、と内心で新たに悲鳴を上げた。オタクっぽいところはあるなと思ったけれど、何かを拗らせている匂いがぷんぷんする。

 「昨日会ったばかりですし」
 「時間は関係ないよ」
 「だから…」
 「エージェント・ロマノフも、安心す」

 ばしゃり、と水音がして、不自然に途切れた彼の言葉を継いだ。机のすぐ横に、いつの間にやって来たのか、ナターシャが立っていた。白い手が、水の入っていたコップを逆さまにしたまま、固まっている。中身は、もちろん、全部彼の頭に。

 「ナタ、もが」

 逆の手で、私の口を塞ぐナターシャ。目を白黒させている彼と、私は今、同じ顔をしているのかもしれない。

 「エージェント・ロマ」
 「外でそうやって呼ばないでくれる?ナターシャでいいわ」

 コップを置いて、にこりと笑った彼女に、彼はようやく勘違いに気付いたようだ。名前を呼ばせるくらい、別にどうってことじゃない。

 「行きましょ」

 ランチに行くときと同じように、彼女と私は、カフェを出た。


 こつこつこつ、とヒールを鳴らして歩いていく彼女は、サングラスをかけた姿ではあったけれど、道行く男の人が振り返っていた。そういえば、メモ男はどうなったんだろう、と思う。

 「ごめんなさい」
 「……え?」

 ぴたり、と足を止めた彼女は、私を振り返ってそう言った。何を言われてるか本気でわからなくて、ちょっと考えて、ああ、と言った。

 「謝るのは私の方だよ。ごめんね、尾行なんてして」
 「尾行してたの?」

 しまった。墓穴掘った。口を押えれば、くすりと笑われる。

 「冗談よ。気づいてた」
 「ですよね」
 「私こそ。余計なお節介だった?」
 「ううん全然!むしろ助かった。だめだよね、はっきり言えなくて」
 「ナマエは、優しいから」

 冗談めかしたように笑う顔の、チャーミングなこと。
 もやもやしていた気分が、簡単に上を向いた。そうだ、と思い出す。

 「近くに、美味しいパンケーキ屋さんがあるんだって」
 「行きましょ」

 目と目を合わせて笑いあった。
 私は今、恋人よりも大切にしたいものがあるので。ごめんなさい。そう、エンジニアの彼に、心の中で言っておいた。


 尾行してたのに気づいてたとしても、どうしてタイミングよく来てくれたんだろう?
 ふと気になって、考えていたんだけれど、ナマエと呼ばれて口につっこまれたパンケーキが甘くてふわふわで美味しくて、すぐに忘れちゃった。


 黒猫がほくそ笑む