「ナマエ、」
事務作業も一区切りついて、時計を見れば、ランチタイムに何分か食い込んだところ。ナターシャが、デスクに顔を出した。ランチボックスを持って、一緒に出る。
「今日は何?」
「サンドイッチ」
職員に解放されているカフェテリアに行けば、自然と耳目が集まる。シールドの花形、アベンジャーズの紅一点。
ナターシャがいると、いつもこうだ。彼女は忙しいから。長官が特命で単独任務を出すので、本部にいる方が、珍しかったりする。
けれど、ナターシャは、本部にいるときはいつも私のために時間を割いてくれる。単なる事務員である、私のために。
どうして仲良くなったのかと聞かれると、正直思い出せない。多分、そう大したことじゃなかったんだと思う。
「一口ちょうだい」
「いいよ」
ナターシャにはいろんな顔がある。任務によって、外見を変えてるってこともあるかもしれないけど。
かき上げた前髪は、大人の女って感じがしてかっこいい。けれど、真っ直ぐに見つめてくる大きな瞳は、猫みたいで可愛い。ふっくらとした唇は、同じ女から見ても色っぽい。
けれど、ぐわっと口を開けて食べる様子は、豪快でさっぱりとした印象が強い。今みたいに。
「ん、おいしい」
私は、彼女がものを食べてる姿が好きだったりする。
「そ、よかった」
笑えば、ナターシャもにっこりと笑った。
「――ナマエさ、よく話してるだろう」
でも、ナターシャを一言でまとめるなら、高嶺の花。
だからこういうことも、珍しくはなかったり。
「これ、連絡先。連絡するよう、言っておいてくれない」
名前と所属と、今時古風なメモ書きを握らせて、同僚は去っていく。ちょっとだけ肩を竦めて、仕事に戻る。まあ、どこから見ても平均値なアラサー女子の方が、凄腕スパイより攻略しやすいでしょうけども。
「これ、連絡ください、って」
任務から戻って、顔を出したナターシャにメモ書きを渡す。彼女はざっと一瞥して、ポケットにそれをしまった。
「行きましょ」
「うん」
ランチボックスを持って、部屋を出る。
*
休日に、街に繰り出すなんて久しぶりのことだ。
「Ms.ミョウジ。こっち」
しかも、男の人とだ。眼鏡のエンジニア職だという彼も、S.H.I.E.L.D.の人間である。
「Ms.#ミョウジ#、ほら、行っちゃいますよ」
「……あの、ナマエでいいです」
礼儀としてそう呼んでくれているのだろうけれど、どうにもむず痒い。今日ナターシャとデートをしている例のメモ男にしても、ファーストネームで呼んでくる。うちの職場ではみんなそうなのだ。
彼を見上げると、彼はにっこりと笑って、僕も名前で呼んでください、と言った。
事の起こりは昨日だ。メモ男が彼を連れてきて、紹介された。帰り際に連絡先を聞かれて、その日の夜に、今日の誘いが来た。『友人同士、様子を見に行きませんか』と。
友人の、それもナターシャのデートの尾行だなんて、御免被りたかったのだが、彼もメモ男に頼まれたのだとか。なんで?と思ったけれど、ひとりで尾行して不審者になったら困るんですよ、と切に説得されて、今に至る。
少し先を歩く、ナターシャとメモ男は、それらしく腕なぞ組んだりして、それをぼんやりと眺めていたら、手を握られていた。そこであれ?と思ったのだけれど、こちらもデートらしくした方が自然でしょう、と言われて、釈然としないまま頷いた。こちとらティーンエイジャーではないのだ。胸のトキメキより不信感が浮かんだ。
気づけば、ナターシャ達の姿は計画的に見失っており、私は、彼に連れられてカフェに腰を落ち着けていた。
「君が好きだ」
手を握られて、まっすぐにこちらを見つめる彼の顔を見つめ返す。地味だが、軒並みのイケメンだ。
ため息をつきたくなるのを堪える。プライベートも仕事も充実している。強いて言うなら、確かに最近色恋沙汰とは無縁だった。けれど、もうちょっと別のアプローチがあったんじゃないだろうか、と思う。ナターシャに抱く必要のない罪悪感まで持ってしまって、なんだか、疲れてしまった。
私の顔から、旗色の悪さを察したのか、握られている手に力がこもる。痛い上に、ちょっと汗かいてる。ひええ。
「別に返事は今すぐでなくとも構わないんだ」
「いや、あのそういうことじゃなくて…」
「ファーストネームを許してくれたじゃないか」
ぎょええ、と内心で新たに悲鳴を上げた。オタクっぽいところはあるなと思ったけれど、何かを拗らせている匂いがぷんぷんする。
「昨日会ったばかりですし」
「時間は関係ないよ」
「だから…」
「エージェント・ロマノフも、安心す」
ばしゃり、と水音がして、不自然に途切れた彼の言葉を継いだ。机のすぐ横に、いつの間にやって来たのか、ナターシャが立っていた。白い手が、水の入っていたコップを逆さまにしたまま、固まっている。中身は、もちろん、全部彼の頭に。
「ナタ、もが」
逆の手で、私の口を塞ぐナターシャ。目を白黒させている彼と、私は今、同じ顔をしているのかもしれない。
「エージェント・ロマ」
「外でそうやって呼ばないでくれる?ナターシャでいいわ」
コップを置いて、にこりと笑った彼女に、彼はようやく勘違いに気付いたようだ。名前を呼ばせるくらい、別にどうってことじゃない。
「行きましょ」
ランチに行くときと同じように、彼女と私は、カフェを出た。
こつこつこつ、とヒールを鳴らして歩いていく彼女は、サングラスをかけた姿ではあったけれど、道行く男の人が振り返っていた。そういえば、メモ男はどうなったんだろう、と思う。
「ごめんなさい」
「……え?」
ぴたり、と足を止めた彼女は、私を振り返ってそう言った。何を言われてるか本気でわからなくて、ちょっと考えて、ああ、と言った。
「謝るのは私の方だよ。ごめんね、尾行なんてして」
「尾行してたの?」
しまった。墓穴掘った。口を押えれば、くすりと笑われる。
「冗談よ。気づいてた」
「ですよね」
「私こそ。余計なお節介だった?」
「ううん全然!むしろ助かった。だめだよね、はっきり言えなくて」
「ナマエは、優しいから」
冗談めかしたように笑う顔の、チャーミングなこと。
もやもやしていた気分が、簡単に上を向いた。そうだ、と思い出す。
「近くに、美味しいパンケーキ屋さんがあるんだって」
「行きましょ」
目と目を合わせて笑いあった。
私は今、恋人よりも大切にしたいものがあるので。ごめんなさい。そう、エンジニアの彼に、心の中で言っておいた。
尾行してたのに気づいてたとしても、どうしてタイミングよく来てくれたんだろう?
ふと気になって、考えていたんだけれど、ナマエと呼ばれて口につっこまれたパンケーキが甘くてふわふわで美味しくて、すぐに忘れちゃった。
黒猫がほくそ笑む