ベッドから音もなく起きあがった彼の瞳は、とても鋭い。その手に握られたのは、常に枕の下に隠してある、ハンドガンだ。
 目覚めるといつも、彼は私を忘れている。その事実に、胸の痛みを覚えなくなったことに気づいたのは、最近のことだけれど。
 私はいつも、彼よりも早くに起きて、着たくもない白衣の袖に腕を通す。仕事をしていた時のように、髪をひっつめて、彼の目覚めをじっと待つ。

 「おはようございます。貴方は、コードネーム、ウィンターソルジャー。私は、貴方のメンテナンスを担当する科学者、ナマエ・ミョウジです」

 にこりと微笑むのに、いつも神経を使う。凍てついた冬の夜のような暗い瞳を見つめ返す時、どきどきしてしまう。緩慢な瞬きを繰り返した彼の手から、鉄の塊が滑り落ちた。

 「……っ、ナマエ」
 「はい」

 脱ぎ落とした白衣を踏みつけて、私は彼の腕の中に帰る。ウィンターソルジャーと科学者、ではなく、バッキー・バーンズとその恋人に、変わるのだ。

 「ナマエ、ッ」
 「……うん」

 ばさり、と解かれた髪が、背中に広がった。それをかき分けるようにして、バッキーの手が、私という存在をまさぐった。彼の左腕を構成する金属が、私の熱を奪っていく。泣くために必要な、熱を。

 「おはよう、バッキー」

 だから、私は、いつもどおり笑って、彼を見上げるのだ。



 人間の体には、驚異的な順応能力が備わっている。秘境と呼ばれる、文明社会の手の届かない場所で、今もなお、人が生活を営んでいるのはその能力によるものだ。現代の人間は、緩慢に進行する環境汚染に順応している。だから、多少空気が汚くとも、水が汚れていようとも、人間はしぶとく生き抜いている。
 洗脳に対しても、人間の脳は、順応してみせる。ということを、私は、ウィンターソルジャーの研究に携わることで知った。
 洗脳に慣れた脳は、どうやら、少しばかりの記憶は保持していられるらしい、ということ。私はそれを検証するために、秘密の実験施設へと、送られたのだ。

 『おはようございます。貴方は、コードネーム、ウィンターソルジャー。私は、貴方のメンテナンスを担当する科学者、ナマエ・ミョウジです』

 洗脳によって制限された記憶の中で、バッキーが覚えたのは、毎日同じ言葉を言って微笑む私だった。そのことがわかったのは、彼がヒドラの監視下から逃げ出した時だけれど。
 ヘリキャリアがS.H.I.E.L.D.本部を破壊したあの時、私を含むチームは近くに待機していたのだ。洗脳が解けたウィンターソルジャーがしたことは、チームの全員に弾丸を撃ち込み、私を連れ去ることだった。

 『ナマエ』

 私を腕に抱えて、バッキーは初めて、私の名前を呼んだ。



 彼に恋をしたと気づいたのは、いったい何時だったのか。そもそも、彼は私に本当に恋をしているのか、私はいつも考えている。理屈っぽい性格は、昔からだ。
 恋心とは言うけれど、結局は刷り込みじゃないのだろうか。その想いが消えないのだ。

 「ナマエ、」
 「ん」

 市場で、買い物を済ませる。2人そろって帽子を目深に被って、怪しいとは思うけれど、仕方ない。バッキーはヒドラとS.H.I.E.L.D.に、私はヒドラに、指名手配されている身だ。

 「いつも来てくれてるからねえ、安くしとくよ」
 「ありがとうございます」

 果物屋のご主人に微笑んで、その場を立ち去る。ーーもう、あの店には行けない。私たちは、顔を覚えられてはいけないから。
 ぎゅ、と繋いでいた手に力が籠もる。バッキーの顔を見上げた。ウィンターソルジャーになる前の彼は、きっと、とても人懐こい性格だったんだろう。こういう些細なことで傷つきやすいように思える。

 「帰ったら、髪切ろうか。髭も」

 首を傾げて私を見下ろすバッキーに微笑む。なんとなくよ、と言えば、そうか、という返事。彼と私だけのこの閉じた生活は、とても、静かで、寂しい。

 おやすみ、と言い合って、唇を触れ合わせる。時には、肌を重ねることもある。そうした後に、私と彼は、同じ毛布に潜り込むのだ。
 いつも、眠る前の彼の瞳には寂しさがある。毎朝私を忘れていることを、あなたが気に病む必要はないのに、と心の中で言った。
 ざんばら髪になって申し訳ない、目にかかる、不揃いな毛束を摘んだ。どうせ帽子を被るから気にするな、とちょっとだけ目を細めた。それが、今のバッキーの、精一杯の笑み。髭を剃って露わになった唇から、すうすうと寝息が漏れる。笑みを浮かべるときに、口角が引き上がることはない。
 中途半端な洗脳が、そうさせている。私を毎朝忘れるのも、豊かな表情を失ったのも、洗脳のせい。順応の限界。

 ああ、と声がこぼれた。慌てて、バッキーを見上げるけれど、彼が目覚める気配はなくて、ほっとする。疲れた、という言葉は飲み下した。
 彼を愛している。
 けれど、……けれど、いつかの朝に、彼は私を思い出さないで、そのままハンドガンの引き金を引くかもしれない。あの日に、チームと一緒に私を殺さなかったのは、彼が私の顔を覚えていたから、それだけの理由かもしれない。
 チームには、私が友と呼ぶ人もいた。バッキーを恨めはしなかった。彼は私たちの被害者だから。そうすると、本当は、私は、彼を愛していないのかも、なんて。
 ああ、と自嘲が混じった笑みを浮かべる。たまに思う。いっそ、思い出さないで、私を撃ち殺してくれないだうか、って。


 浅い眠りから目を覚ました時、窓の外はまだ薄暗い。彼の腕をどけて、ベッドから降りる。しんしんと冷えが、裸足の足を這い上がった。
 狭くもなく、広くもない部屋を見渡す。殺風景な部屋に、私物を探してみたけれど、そもそも身一つで彼にさらわれて、私には、あの白衣しかない。部屋の壁にかかっているそれを見て、私は、ぱちり、と瞬いた。

 どうして、もっと早くにこうしなかったのだろう。白衣をリュックへと詰めて、着替えた私は、夜明け前のベルリンへと駆けだした。いや、走る必要はない。だって、白衣と私さえ、いなければ、彼は私を思い出さない。論理的には、そうだ。そうすると、追いかけてくるはずも、ないのだから。
 じんわりと、明るくなった空が滲む。泣きながら、笑ってしまった。今更泣いたところで、どうしようもない。彼はもう、目覚めただろう、私を思い出さずに、私なんていなかったように、一日を始めているはずだ。
 私、バッキーを愛していたんだ。最初は情が移っただけかもしれないけど、今は、ちゃんと、心の底から、彼を愛していると思えた。そう思うと、胸の中につかえていた何かが、すっきりとした。

 「っ」

 く、と腕を引かれた。ようやく解放されたと思ったのに。

 「……どうして」
 
 はあ、はあ、と荒い息が耳を擽る。
 どうして、貴方がここにいて、私を抱きしめてるんだろう。
 縋り、つくみたいに、強い力が、苦しい。

 「っ、思い出さなくて…、いいんだよ」

 私は微笑んだ。それ以外の表情を、彼に見せたくなくて、ずっと微笑んできた。頬を挟んで、目を合わせた彼の顔が歪む。

 「ーーっ勝手に!!」
 「バッ、…ッ」

 痛い。ぎりぎりと肩を掴む手の力には、容赦がなかった。顔を歪めた私に、彼こそが、痛ましげな顔をする。こつり、と額が合わさる。
 勝手に、と苦しげな声は、泣いているようにも聞こえた。

 「俺の心を…、持って、行かないでくれ……っ」

 バッキー・バーンズの心を持って行ってくれるな、と彼は泣いた。
 洗脳されていたのはそれに囚われていたのは、私の方、だったのかもしれない。涙が溢れた。私は、自分勝手にも、ずっと彼が私に与えてくれていた愛情を消そうとしていたのだと、気づいた。
 ごめんなさい、と抱きつけば、今度は優しく、抱きしめられる。

 「もう、離さない」
 「離して、やれないんだ」
 「お前が辛いと言っても、無理だ」

 私の手を引きながら、彼はぽつりぽつりと語った。うん、うん、と相槌を打つしかできない私に、彼は繋いだ手の力を強くしてくれた。


* * *

 目覚める時に、いつも、俺は、腕の中の何かを探している。
 寝起きではっきりとしない頭は、警戒のために、枕の下のハンドガンを握らせる。そして、部屋の中の、自分以外の人間へと、その銃口を向けさせる。
 俺が探していたものは、いつも目覚める俺の腕の中にない。けれど、いつも手を伸ばせば届くところにあった。
 彼女が微笑みかけてくれれば、俺はようやく、銃を手放すことができる。俺が彼女を愛しているから。
 探しているのは、俺自身の心。そう気づいたのは、彼女がいないとわかった時。腕の中にも、部屋のどこにも、彼女はいない。

 白衣も、言葉も、本当は要らなかった。欲しいのは、彼女自身だ。
 バッキー・バーンズが愛する、ナマエ・ミョウジという女。

 繋いだ手に、力をこめて、彼女の存在を確かめる。涙を見るのは初めてで、くしゃくしゃになった顔も、彼女のものであれば、愛おしさが募る。  好きだ。
  愛してる。
 そう囁きながら、彼女を抱いた。気をやった彼女の肌を未練がましく撫でる。そして、2人一緒に、毛布へとくるまった。
 白衣は、帰ってくる前に、ゴミ捨て場に捨ててきた。彼女が笑ってくれれば、俺は、俺に戻れる。
 ハンドガンを手に取って、それも、枕の下から移してしまおうと思った。完全に手放すことはできなくても、ベッドからは遠ざけようと、そう思ったのに。

 俺は、銃口を、眠っているナマエの顔に向けた。毎朝、しているように。引き金には、指をかけない。
 だが、この、どうしようもない安堵を、俺は、手放すことが、できない。


 Unstable Heart