きりっとした眉毛も、その下に隠れるような瞳も、髪も、服も、ぜんぶぜんぶ黒ばかりだから、近寄りにくいと思ってた、あの人。
でも、ナマエと話すとき、怖いな、と思っていた目が、優しくなることを知った。
 何かジョークを言ったんだろう。たぶん、ウィットに富んだ、ジョークってやつ。ナマエが、くすくすと、お行儀が悪くないぐらいに笑っているもの。あの人も、静かに笑っている。
 隣に目を向けると、クリーデンスは、いつも通り、猫背気味。これでもあの人に言われてだいぶ直ったんだけどね。
 俯いて、隠すようにしている口元がゆるんでいるのが、隣の私には丸見え。クリーデンスも、面白かったんだ。なんだか、むっとしてしまう。
 机は確かに広いけど、あっち側と、私たちを隔てるほどじゃないでしょ?

 「パーシバル、」

 思ったより簡単に、その名を呼ぶことができた。クリーデンスが私の見えないところでがちゃがちゃとフォークを落として、煮た豆が飛んできた。
 ナマエも、あの人も、びっくりしたようにこっちを見ている。

 「そっちのパンが食べたいの」
 「っモデスティ!!」

 クリーデンスが、まるで、継母だったあの人みたいに叱ってきて、首を竦めてしまう。テーブルの上がしん、として、じわじわと涙が出てきた。よく磨かれたグラスが、ぐにゃりと歪んだ。

 「、ナマエだって、……呼んでるもん」

 あの人をなんて呼んだらいいかな。そう話したら、クリーデンスはとんでもない、とばかりに聞いてくれなかったじゃない。私も、クリーデンスもベアボーンのままだから、パパじゃない。でも、ナマエは、家族だって言ってくれた。  クリーデンスみたいに、グレイブスさん、だなんてそんな。……寂しいじゃない。

 「――モデスティ」

 低い声で名前を呼ばれて、おずおずと顔を上げる。怒られて、しまうのだろうか。
 ナマエをちらりと見ると、いつもの笑顔で頷いてくれたから、ちょっとだけ安心してあの人を見る。あの黒い瞳が、私をじっと見てる。怒ってる、わけじゃない。ナマエに向けているのと、同じ。

 「好きに呼ぶといい」

 パンを手渡されて、びっくりしたまま受け取る。だって、だって――。あの人、まるでクリーデンスみたいに、不器用に笑うんだもの。

 「クリーデンス、君もだ」
 「いえ、僕は――」

 顔を真っ赤にして、首も手もぶんぶんと振るクリーデンスに呆れちゃう。……ああ、そうだ。

 「パーシバル」
 「どうした」
 「ありがとう」

 あの人はもう一度、そっと笑った。



 「モデスティ、寝る時間よ」

 マグカップを持ってナマエが部屋に来たら、ベッドに入らなきゃいけない。綺麗な絵のついた本を買ってくれたのはナマエだ。でも、お金は、パーシバルが出してくれてるんだって。

 「ナマエ、」

 とんとん、と隣を叩けば、しかたないなあ、って笑顔で、ナマエが毛布の中に来てくれた。ぎゅ、って抱き着くと、とてもいい匂いがした。
 いつもいつも、こうやってナマエに背を撫でられながら、胸いっぱいにこの香りを吸いこむと、鼻の奥がつんとする。
 クリーデンスをぶつあの人は、好きにはなれなかったけど、チャスティティは、違う。
 私が眠れないと、不機嫌でも同じベッドで寝てくれた。ナマエみたいに明るく笑ったり、甘やかしたりはしなかったけど、それでも、チャスティティは、お姉ちゃんだったのだ。

 「――……"わたしのちっちゃなお姫様"」

 ナマエが、耳元で歌ってくれる子守歌が、私は大好きだ。いつまでも聞いていたくなるような優しい声。
 あの人を、パーシバルのことを好きになれたのも、ナマエのおかげなのだ。パーシバルもクリーデンスも、きっとよく似ていて、不器用。でも、ナマエの前では2人とも、肩の力が抜けるみたい。
 とろとろと閉じちゃいそうな目をなんとか開けて、もぞもぞと起きた。

 「ねえ、ナマエ」
 「どうしたの」
 「大きくなったら、ナマエみたいになりたいわ」

 いつもとは違って、ナマエを見下ろせる。目閉じて、と頼んで、両方の瞼に、ちょんちょんと口をつける。
 くすぐったように笑ったナマエの手が、私をもう一度毛布に寝かしつけて、代わりにナマエは出て行ってしまう。

 「それじゃあ、ちゃんと眠らないと」
 「うん」
 「おやすみ、モデスティ」
 「おやすみ」

 前髪をそっと撫でられると、不思議とすぐに眠くなる。ナマエの手は、お掃除も料理も上手で、本当に、魔法使いみたいだ。
 ――おやすみ、モデスティ、また明日ね。
 遠くで、そんなナマエの声を聞いた。



 子供たちが、駆け寄ってきて、門のところに、変な人がいる、と教えてくれた。やれやれ、と腰を上げて、子供たちに手を引かれるまま、春の陽気があたたかい外に出る。

 「――ねえ、そこの人」

 随分と背が高い人だ。おどおどと視線を彷徨わせるその人を見上げる。癖のある黒髪が目にかかっていて、身なりはきちんとした紳士なのに、挙動が怪しすぎる。

 「炊き出しは日曜だけなの。でも、それが目当てってわけじゃなさそうね。何かご用?」
 「あ、の、」

 それきり、口を開いたり、閉じたリ。人見知りをする子供みたいだ。こういう時は、焦らずに待つのが、一番いい。
 腰に手を当てて待っていると、ぼすり、とワンピースの裾に重みがかかる。

 「起きちゃったの?」
 「ん、だっこー」
 「はいはい」

 ぐずぐずと、目を擦る小さな女の子。この子も孤児だ。抱き上げて、ふわふわとした髪を撫でる。
 その様子をじっと見つめているお兄さんに首を傾げた。

 「……もしかして、記者の人?」
 「へ」
 「今でも偶にいるのよね。新セーレム救世軍のことを調べて、ここにたどり着いたんじゃないの?」

 わかりやすく顔を強張らせた彼に苦笑する。

 「残念だけど、なんにも覚えてないよ。ここの門の前で、ここの院長さんに引き取られるまではね。新セーレム救世軍のリーダーの娘だったんだってね、私」

 自分のことなのに、他人事なのは、まるっきり覚えていないからだ。
 何人か訪ねてきた人の話を聞くと、ガス爆発で、本拠地が吹っ飛んで、リーダーだった母親も、娘も、瓦礫の下で死んでしまったらしい。兄と、小さな妹は行方が知れなくて、何年か経った後に、妹の方――、つまり私は、ひょっこりと姿を現した、ということらしい。

 「っ辛く、ないの?」

 急にぶつけられた疑問に、私は目を丸くする。見上げれば、何故だかとても、苦しそうな顔をしていた。
 ――保護者にあたる存在に、二度も捨てられて、辛くないのか、と。そう言いたいのだろうか。
 彼の顔に浮かぶ苦さは、同情とは、違うような気がして。記者に同じように聞かれた時には適当にはぐらかしていたんだけど、ちゃんと考える。

 「……全然?」
 「っ」
 「気にしてないわけじゃないけど。ここの院長さんはとても優しくしてくれたし、私、今幸せよ?」

 たぶん、前もそう悪くはなかったんじゃないかなあ。そう言って笑えば、お兄さんは目をまん丸くして、びっくりしているようだった。

 「何も覚えてないけど、それを不安に思ったり、辛かったり悲しかったりしたせいで記憶喪失になったなんて思えないんだよね。きっと、良くしてもらっていたんだと思うよ」
 「…………そ、う」

 そっと俯いたお兄さんの口元はよく見えなかったけれど、笑ったんじゃないか、と何となく思う。こうやって、隠して笑う人のことを、私はよく知っている気がした。
 本格的に眠りだして、くったりと寄りかかってくる――チャスティティを抱えなおして、踵を返そうとする。けど、

 「ねえ、お茶でも――……」

 風が吹いて、思わずぱちり、と瞬いた。前髪を、そっと撫でられたような気がして、目を開けたらそこには誰も、いなかった。……変なの。
 ねだられていつもの子守歌を口ずさんであげると、なんだか胸が苦しくなる。


 「……――"わたしのちっちゃなお姫様"」


 髪伸ばしたんだ、と苦笑して、それから、何故そんなことを思ったんだろう、と不思議に思った。