仕事を終えて帰宅する。しかし、常なら出迎えてくれるナマエが、一向に姿を現さない。と、いっても、もう日付を越えて、針が2度ほど一周している時間だが。大抵は、不眠の気があるクリーデンスのことを気にかけて、起きているのに。

 一応、クリーデンスやモデスティの寝室を覗けば、2人ともよく眠っている。ナマエも、眠っているのだろうか。
 就寝のための準備をしてから、書斎に足を向けた。明日の午前は久しぶりに休みが取れたから、読みかけの本を読もうと思ったのだ。
 グリンデルバルドの一件以来、議長の言葉添えもあり、何とか復職できたものの、いまだ闇の魔法使いへの信奉者でないかと、私を疑うものは多かった。以前の生活を取り戻すためにも、ただただ望まれる仕事量をこなし、身の潔白を証明せねばならない。

 「……、……」

 書斎の鍵が開いている。ナマエが閉め忘れたのだろうか。……いや。
 消えそうになっているランプの灯りを見るに、寝入ってしまったのは随分と前だろう。机に左の頬を預け、穏やかな寝息を漏らしている彼女に、ほ、と息をつく。すっかり冷えてしまっている肩に、ガウンをかけてやりながら、杖で、魔法の灯りに切り替える。
 ナマエが枕にしているのは、魔法学校に通う子供たちが使う入門書のようなものだ。……そういえば、クリーデンスが魔法に興味を持ち始めていると言っていた。
 ――明日、きちんと話をしてもいいかもしれない。彼も、この家での生活の中で、段々と私の姿を奪っていた男と、本来の私とを、分けて見てくれるようになっていた。

 ナマエのためにごくごく小さく絞った灯かりが揺らめいて、部屋の隅に影を投げかける。不安定に踊る闇に、ぞくり、と背筋を撫で上げた悪寒。机に置いていた手を握り締めていたことに、気が付く。
 狭い穴倉のような場所に閉じ込められていた時の記憶は、あまりよく覚えていない。――いや、つとめて思い出さないように、しているのだろう。
 ずるずると、パーシバル・グレイブスという人格が溶かされて、少しづつ少しづつ嚥下されていく。そんな錯覚に、いまだに苛まれ続けている。
 ――後は、あなた自身の問題です。聖マンゴを退院するときに言われた言葉。まったく、その通りだ。精神を強く持たねばならないのに。ぐらぐらと、視界が揺れる。

 『――……パーシバル!』

 久しぶりに浴びた陽光に目が眩み、私を迎えに来たナマエは、突然目の前に現れたように、飛び込んできた。私の肩口に縋り付き、大きく息を吐いたナマエを抱きしめて、ようやく、緊張が抜けた。
 彼女が無事でよかったと思って、しかし内腑が冷えるようだった。
 ――……おかしい。本当に、彼女は、議長やティナが言うように、事件当時にまったく関わりを持っていなかったのだろうか。
 確かに、彼女は、私がグリンデルバルドに乗っ取られるほんの少し前に、休暇を利用してイギリスに戻っていた。グリンデルバルドも、ナマエの名に反応することはなかったし、ナマエも、奴については新聞以上の知識は持っていなかった。
 だが、私の立場を利用しつくしていたグリンデルバルドが、こんなにも私の近くにいる彼女を、本当に、見逃すだろうか。

 彼女の寝顔を隠してしまっている髪を避けると、滑らかな陰影が、彼女の首から肩口を飾る。身を折り曲げて、喉に唇を押し付けた。

 「……奴は、グリンデルバルドは、いったい君に、何をしたんだ……?」

 ひそやかな問いかけには、ナマエだけじゃなく、誰も答えられはしないのだろう。
 グリンデルバルドとナマエを結ぶ接点は、誰かが消してしまったかのように、不自然に存在しえないのだ。
 狐に化かされたかのように、誰も――、本人でさえも、忘れていたとしても。私だけは、知っている。

 「、ナマエ、風邪を引くぞ」
 「……、ん、パーシバル?」

 帰ってたの、と、とろりと緩んだ瞳を覗き込む。微笑めば、ナマエはおとなしく身を預けてきた。

 ――グリンデルバルドが私にしたように、君を閉じ込めて独占してしまおうか。
 そんな考えが私に囁きかけることがある。夜の闇の中では、特にね。おぞましいと思う一方で、魅力的だと、私に、私が、嗤いかけるのだ。