「彼女は、ナマエ・ミョウジだ」

  グレイブスさんが紹介した女の人。とても、美しい人だと思った。

 「はじめまして。クリーデンスとモデスティね」

 僕が生き残ったのは奇跡的なことなんだと、よくわからない言葉ばかりでティナに説明された。モデスティと共に、グレイブスさんの家に引き取られることになった、とも。
 でも、不安しかなかった。

 僕が会っていたのは、グレイブスさんじゃ、なかったんだって。ナマエさんと同じように、はじめまして、とよく知ってる顔で言われて、僕の胸には、ぽっかりと穴が開いたみたいだった。
 僕の傷を治してくれた手も、僕を抱きしめてくれた手も、ペンダントをかけてくれた手も、全部ニセモノなんだって。ティナは何も答えられないでいる僕に対して、何も聞くことはなかった。

 『――Understand?』

 そう、聞かれることが怖かったからその時はただ、ほっとした。
 わかんないこと、だらけで、どうしたらいいか。崩れかけた駅の地下から逃げ出してから、ずっと。



 ナマエさんはグレイブスさんの家で家事代行をしていたのだという。

 『ようやく向こうの家を引き払ったらしいな』
 『クリーデンスたちを一人にするわけにはいかないからね』

 眠れない時は、キッチンへ――その習慣ができたのも、ナマエさんのおかげだ。眠れなくてもかびた臭いのする布団の中で身を丸めているだけだった夜は、もう来ない。
 あの夜も、僕は、ぬくもりを、ナマエさんを探して、裸足で廊下を歩いていた。キッチンから聞こえてくる、ひそかな話声。

 『ナマエ、』

 聞いたことがある声音だと思った。――チラシ配りをしていた時の記憶を辿る。
 足が痛いから"だっこ"をねだる子に応える、親の声だ。でも、なんだろう、どきどきとする心臓のあたりを、そっとおさえた。
 僕やモデスティと話すときも、グレイブスさんの声は優しいけれど。それ以上に、ナマエさんを呼ぶ柔らかい声は、この家に来てはじめた食べた蜂蜜みたいな味がしそうだ。……なんだか、熱いな。首にあてた指先が、ほんの少し湿った。

 『私の勧めには、応じなかっただろう』
 『ふ、面白くなさそうね』
 『……君は、ずるい女だよ』

 きぃ、と目の前で開かれた扉に飛び上がって驚いた。

 『クリーデンス、そこは寒いだろう。入りなさい』

 顔を覗かせたグレイブスさんの顔は、いつも通りで。あたためたミルクを渡してくれたナマエさんの笑みに、ああ、彼らは僕のことに気付いていたんだな、と何となくわかった。ここでは、何も言わないことが、正しいのだとも。



 「――パーシバルとナマエは、恋人なのかなあ」

 モデスティが、ナマエさんに結んでもらった髪を気にしながら言った。モデスティが、グレイブスさんをはじめてそう呼んだ時に、ある出来事があったのは、また別の話。

 「……さあ、どうだろ」

 モデスティは最近しきりにそういったことを口にしていた。そういう年頃なのよ、と遊びに来たティナは、帰り際に言っていた。
 僕の返事に、モデスティはつまらなさそうな顔を覗かせて、遊びに行ってくるね、と家のどこかで家事をしているナマエさんに呼びかけた。はあい、とどこからか返事が返ってきたのをちゃんと聞いて、明るい外に飛び出していく。
 多分だけど、恋人じゃあ、ない。あの夜の会話を思い出すと、余計に、そう思えた。でもそれを言っても、モデスティは納得しないんだろうな。
 ナマエさんやグレイブスさんは大人で、モデスティは、子供だから。
 ……僕は?僕はどっちなんだろう。

 なんとなく足を向けたキッチンを覗くと、ナマエさんが杖を取り出していた。ぶわ、と何かが全身を駆け抜けて、僕は思わず後ずさる。ぎぃ、と床板が鳴って、ぱ、とナマエさんが僕を振り返った。

 「クリーデンス、」

 手品みたいに、杖をどこかへ隠したナマエさんも、グレイブスさんや、ティナや、スキャマンダーさんみたいに、魔法使いなんだという。
 あの――事件のことは、モデスティには秘密にしなきゃいけない。魔法の話も。内緒ね、とナマエさんはいつの時にか困ったように、人差し指を口に当てた。
 それに、僕の前でも、――事件のことを気にしてか、ナマエさんもグレイブスさんも魔法を使ったりしない。

 「ごめんね、怖かった?」

 首を横に振って、近づけば、頭をくしゃりと撫でられた。宥めるように、首の後ろを滑る手に、拳を握りしめた。

 「上の棚に入ってる紅茶を取りたかったんだけど、届かなくて。台持ってくるの、さぼっちゃった」

 まるで悪戯が見つかった時のモデスティみたいに笑ったナマエさん。その視線の先にある飾り扉は、確かに、ナマエさんでは手が届かないだろう。

 「ちゃんと持ってくるね、そこにあるスコーンつまんでてもいいよ」
 「っあ、の、僕が、」

 え、と小さく声をあげたナマエさんを押しとどめて、猫背を伸ばす。ふんわりといい匂いがして、かさついた僕の唇がナマエさんの髪を掠めた。
 浮かせていた踵を床につけて、そろそろと下がりながらナマエさんに、箱を渡した。
 ありがとう、と微笑むナマエさんの瞳を見つめられない。

 「これ、珍しい銘柄でね。買ってしまいこんだの忘れてた」

 アフタヌーン・ティーと洒落こみますか。ティーポットを出して準備をしているナマエさんの背中を盗み見ながら、さっきの感触を思い出して、唇に触れた。



 ――――もう少し、もう少しだけ、触れていたかった。
 夜、ふかふかの枕に頬を埋めながら、どうしても指先が、唇をなぞってしまうのをやめられない。は、と小さく、でも深く、息を吐いた。
 グレイブスさんが仕立ててくれたよそ行きの服の布地に似ているけれど、それよりももっと滑らかで、柔らかい感触だった、#ナマエさんの髪。
 モデスティの言うことに、心のどこかが、じくじくと痛むみたいだった。ベルトで叩かれた跡みたいに、どうしようもなく、ひりつく。
 ナマエさんは、グレイブスさんのものじゃ、ないんだから。恋人、だなんて。ゆっくりと、唇に、舌を這わせた。