胡蝶の夢結び


――夢は疲れますか?
――うん、夢は疲れるよ。
恐らくそれは、一つの現象でした。





++胡蝶の夢結び++





沈丁花の花が艶やかに咲き誇り、その芳香が色強く漂うようになった頃のことでした。


まず一番初めに、忍術学園内でとある城から送り込まれたと思われるくせ者が見つかりました(例によって一年は組の連中に見つかったため、初めから見つかることが目的だったかのようにも思われます)
次に、それを知った学園長から六年生に正体を掴むようとの命が下りました。
そして、案外あっさりと身元が割れたものの(あまりに簡単に割れたため、あらかじめ答えが用意されていたものと推測されます)潮江先輩と七松先輩が教員の制止に耳を貸さずに深追いしました。
ところが、敵は相当の手練れだったらしく二人はいとも簡単にまかれてしまったうえに潮江先輩は刀を、七松先輩は毒をそれぞれ喰らいました。
最後に、二人して息も絶え絶えのまま口々に報告を終えた今現在、潮江先輩は善法寺先輩により縫合、七松先輩は昏倒し新野先生の元で解毒治療、それぞれ別室で数日間の経過観察及び入院治療を受けることになりました。





これがとある先輩から数日前に聞いた、私が意識の戻らない七松先輩の傍に居座ることとなった事の顛末です。
いつもの高慢さなんて微塵も見受けられませんでした。
ずいぶんと青ざめた顔で私や他の先輩、先生方に全てを話して聞かせた先輩は、療養の邪魔になるからと言って一度も医務室には立ち入りません。
また、同じ六年生や五年生と言った上級生の方々も、滅多なこと(それも、ごく簡潔な業務連絡のみで)が無い限り見舞いには来ません。
七松先輩は時折譫言のように先輩の名を呼びました。
貴方だけでも会って差し上げては、と言った私に対して先輩は、今は私よりお前が傍にいてやる方がずっと彼の為になると震える唇で、それでもきっぱりと言いました。
ただ私に彼を頼むとだけ告げ、それ以降一切医務室には近づきません。
私にはそれは、酷く薄情なことのように思え言い知れない憤りが込み上げ新野先生へ訴えましたが、彼は弱ったように眉をしかめるだけでした。
仕方がないことなのだよ、ともおっしゃっていました。
ただ、彼に世話になっているらしい下級生達は、しげしげと足を運んできました。
潮江先輩の方も七松先輩とほぼ同じような状態で彼の方には、は組とろ組の後輩が付き添っていました。
時折ぼそぼそと喋る声が聞こえてきました。





初めにその音は、私が窓の下の小机に向かい本を読んでいた時に気のせいかと思うほど微かに聞こえました。
私がその音が気のせいではないと思うに至ったのは、その音が、私が気付いた後もひっきりなしに続いたからです。
私ははっとして振り返りました。
この部屋には今私と七松先輩しかいません。
その背後から聞こえる一定のリズムを保ちながら畳を伸びた爪で引っ掻くようなその音は、確かに七松先輩が意識を取り戻したことを意味するのですから。
私は机に準備していた薬注しを掴むと慌てて、しかし慎重に先輩の枕もとに近寄りゆっくりと水を飲ませました。

「すまん」
「いえ」

酷く、掠れた声でした。

「私は、生きているのだな。どれくらい眠っていた?」
「はい、3日程です。何か食べられますか?」
「いや、今は……文次郎、は?」
「隣の部屋で寝ていらっしゃいますが、ずっと意識はあります。怪我は酷いですが無事です」
「そうか」
「滝夜叉丸先輩をお呼びしましょうか?」
「いや、今は平にだけは会いたくない」

私はその意外な返答に、少なからず驚きました。
恐らくは表情にまで出てしまっていたでしょう。
先輩は疲れたように長く溜息をつくと体を起こそうとしましたが、痛みを感じたのか顔を酷く歪めました。
あんなにも精悍な人なのに、内部から浸食される傷には太刀打ち出来ないのか。
そう思うと、改めて先輩が人間であることを意識させられて、死ぬかもしれなかったのだという事実に再度ゾッとしました。

「まだ寝ていなくてはいけません」
「体を起こすだけだ。眠るのは疲れる。夢を見るからな」
「夢は疲れますか?」
「うん、夢は疲れるよ。特にこういう時の夢は」

顔をしかめた先輩に手を貸しながら、この三日間、彼は何の夢を見ていたのだろうと思いました。
きっと、私には解し難い、とても解し難い内容でしょう。

「夢とは果たして、何なのでしょうか」

それでも問わずには居られなかったのです。
夢とは何処より訪れ、何処へ去ってゆくのか。
闇夜の名残だけを残して、日が昇る頃にはあっけらかんと消えてゆくのです。
夢とは、果たして。

「良い質問だな」

だけど、とても難しい質問だ。先輩は私の頭を誉めるように撫でてそう仰いました。

「私が理解するのが難しいという意味でしょうか」
「そうではない。お前は賢いよ。ただ、抽象的なものだから。きっと伊作や長次ならば、こういった説明が上手いだろうに」

そのあと、長次は口下手だから聞くのに一苦労だがな、と言って笑いました。
私はそのまま先輩が再び口を開くのを待ちました。
七松先輩は必ず説明をしてくれる、良く解りませんが、そういう確信がありました。

「夢とは……」
「はい」

私は座りなおしてその続きを聞きました。

「太古より経験しせし細胞の記憶が本能に欲望を映させる。夢とはそういうものだ。そうあってはいけないと普段倫理や理性の名の下に捻伏せているものをこれ見よがしに見せつけられるんだ」

先輩は私の顔を見つめて笑いました。

「私はこんなにも浅ましい生き物なのだとね」

とても優しくて、とても自己嫌悪の込められた笑みでした。
私は、七松先輩の、こんなにも悲しい顔を見るのは初めてでした。

「人というものは常識やそこに起こりうる現象の範疇でのみ生きようとするからこそ、生命の危機に直面すると本能が底知れぬ牙を向く。解るか?だから私は今だけは平に会いたくないのだよ」
「はあ…、すみません、私にはまだ難しくて」
「それで良い。今はまだそれで良いんだ左近、いずれ知りたくなくとも知る日が来る。それも、そう遠くない未来に」
「はい」

疲れたようにため息を吐きながら、それでも血の気の引いた普段の姿からは想像だに出来ない顔色でゆっくりと微笑む先輩の顔を、私はじっと見つめました。
私の頭に置かれた先輩の大きな傷だらけの手が、それでも暖かくて、そうしていないと最早涙が零れそうだったからです。
私は知っているのです。
この学園の先輩方の手だけではない、満身の傷を、精神の傷を。
この人も、もちろん、私の所属する委員会の委員長も。
そしてこの人の最愛の人も。
たった2年。
たった2年ここに居ただけで、最早数え切れないほど知っているのです。
学年が上がれば上がるほど、体つきが、顔付きが精悍になればなるほど、深く長く、古傷は成長とともに痣になりそこに新たな傷が生きた証として刻まれる。
私の手はまだ綺麗なまま両脇にぶらんとぶら下がっています。
例え傷を負ったとしても直ぐに塞がれ消えてしまう程度の傷しか負わないからでしょう。
私は即座に後悔しました。
先輩の口から、あんなことを語らせてしまった自分を恥じました。



そして私は今更ながらに恐怖したのです。
自らが選びつかみ取るべき道の最果ての、そこにあるべき未来の惨憺さに。



私はまだその鱗片すら知りません。
恐らくあの人が私に、私が先輩の傍にいるよりお前が付いている方が為になると仰ったのは、私がある程度薬品を扱え、それでも尚まだ何も知らない無知な子供だったからなのでしょう。
共感出来るものがない分、下手な同情などで余計に傷つける事も、ないからなのでしょう。
無知の知。
知の無知。
ああ、だからあの人は此処へいらっしゃらないのだ。
自らの存在が、ぬるま湯のような優しさや同情、共感が、一時の気休めにしか成り得ずそんなものが救いにはならないと解っていらっしゃるから。


玄人に最も近い所にいる人間のくせして玄人に手のひらの上で弄ばれてまんまとしてやられたという屈辱と、それによる圧倒的な自己嫌悪。
まだ生徒であるというただそれだけで、命までは奪われなかっただけだ。
いつでも命を奪えたという事実をこの身にありありと刻みこまれ、おのれの無力さを恥じ、不甲斐なさを呪う。
手のひらから何度も零れ落ちそうになる命に怯え、今後に不安を覚え、今ある現実さえも信じられなくなり込み上げる吐き気と破壊衝動と熱を持て余して夢に逃げては、本能が浅ましく醜い己を合わせ鏡に映し出して嗤われる。

その孤独が、彼を強くする。
高みへと追い詰める。
そしてより落ちれば死する可能性をも高めてゆく。
ああ、忍とはそういうものですか?
忍とはそういうものなのですか?

震える唇で、声で、愛しい人を他人に託す事しか出来なかったあの人は今、独り何を想うのでしょう。
蒼白な顔で爪が食い込み血が滲むほど手を握りしめては、黙って傍に居るにはまだ子供過ぎ、下手な気を遣う時期はもうとうに過ぎてしまった自分を恨めしく思い、悔しさに歯がゆさに自己嫌悪に陥るのでしょうか。
それもまた、きっと孤独でしょう。






それは沈丁花の花が艶やかに咲き誇り、その芳香が色強く漂うようになった頃のことでした。
私はまもなく三年生となります。
最上級生の皆々様は学園を去り、あの人は五年生となります。
ここへ一切顔を見せなかった五年生の方々は、最上級生になります。
一つ学年が上がって私たちは、また一つ死へと歩み寄ったのでしょう。
近しい未来に、私もこの人達が辿ってきた狂おしいほどの孤独と自己嫌悪と恐怖と陶酔に耐えうる事が出来、此処を卒業することが出来たのであれば、私はこの人と同じように死臭を身にまとい生死の狭間で本能と手を取って踊るようになるのでしょう。

そのことに、私は、今更ながらに恐怖したのです。





それでもなお、私はこの人のようにたおやかに微笑えるのでしょうか。





END+++++





陰惨な事実を陰惨に書くことはなんとも簡単なことでしょう。
陰惨な事実をコミカルに書くことのできる先生は、本当にすごいと思います。

小平太の事が大好きな滝夜叉丸を書こうと思ったらこんなん出来ました。
二年生を絡めて尚、こんな暗い話になるなんて。
すごいスリルー。








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