雨潦雨華


強く胸元を押され、体の均衡を崩した滝夜叉丸は、深く掘った塹壕堀の底へと転がり落ちた。
呆気にとられて悲鳴すらも出なかった。
何かに縋るように伸ばした手は虚しく空を掴んだ。
底に辿り着いた彼は、ただ成す術も無く呆然と上を見上げた。
雨が目に染み、視界がぼやけた。
彼を塹壕堀の底へと突き落とした張本人は冷たい、しかしどこか傷付いた冥い目で彼を見下ろした後、くるりと踵を返し重い足取りでその場を去って行った。
滝夜叉丸にはその人の姿は見えず、その人がどんな表情をしていたかさえ判別出来なかった。
ただ徐々に小さくなって行く、引きずるような足音とかちゃかちゃとぶつかり合う縄梯子の木の音だけが聞こえていた。





++雨潦雨華++





初めは撫でるような小雨だった。
それが次第に勢いを増した。
まださほど遅くも無いのに、空は分厚い雲に覆われ、辺りは夕暮れのように薄暗かった。


雨でぬかるみ出した堀を、縄梯子も無しによじ登る作業は非常に困難なことだった。
滝夜叉丸はやっとの思いで塹壕掘から這い上がると、泥だらけになった自分の姿を見て溜息を吐いた。
一体自分は何故先ほどまで一緒に掘っていたはずの塹壕掘へ、一緒に掘っていたはずの人物に突き落とされねばならなかったのだろう。
滝夜叉丸には皆目解らず、そのことは彼の胸中に小さな苛立ちを生んだ。

彼は全く疲れていた。
ただでさえ数時間に及ぶ塹壕掘りと日常の鍛錬で激しく体力を消耗していた所に雨が降ってくれば、誰だって嫌気がさす。
だから滝夜叉丸は、尚も一心不乱に穴を掘り続けていた小平太に内心溜息を吐き、先輩、今日はこれまでにしませんか、と問うた。
小平太はその声ではっとした様に滝夜叉丸を振り返り、辺りを見渡してから漸く雨に気付いた様子で、そうだなそうしよう、と独り言のように言った。


『いや、悪かったね』


頭を掻きながら苦笑い交じりにそう言った小平太の顔を、滝夜叉丸はさほど古くない記憶の中から鮮明に思い返すことが出来た。
そうだ、それまではいつもの先輩の姿となんら変わりなかった。
その後、深く掘った堀から這い出るときに使った縄梯子を片付けながら会話を交わした時だって、別段滝夜叉丸を突き落とすほど不機嫌な様子は見られなかったのに。

しかしその何気ないはずの会話は、自分が突き落とされる事になって終了することとなったのだという事を思い出した滝夜叉丸は、その会話に原因があっただろう事に思い当たり、その会話の顛末を胸中で反芻しながら帰路に着いた。
理由も解らずただ理不尽な扱いを受けただけというのは、彼の自尊心が許さなかったのだ。




『いや、悪かったね。遅くまで付き合わせてちゃって』
『構いません。塹壕堀りも、敵を倒すための訓練には必要な事ですから』
『他には?』
『は、他ですか?』
『いやだから、滝夜叉丸にとっての訓練って敵を倒すためだけでしかないの?』
『はい。それだけです』
『じゃあどうやって自分の大切なものや自分の身を守るの?』
『自分の身を守る必要はありません。自らの命をかけて敵を倒せば、それが最大の防御であり、大切なものを守ることにも繋がりますから』


『……馬鹿だね、滝夜叉丸』




馬鹿だね、滝夜叉丸。
そう言って小平太は滝夜叉丸を深い塹壕掘へと突き落とした。
冥く沈み傷ついた声で、表情で、彼は彼を突き落とした。
けれど滝夜叉丸の耳には最後の言葉は届いていなかったし、表情も見えていなかった。
滝夜叉丸にはやはりどうしても小平太がその行動に至った動機が解らず、考えても考えても胸中に生れた苛立ちがより明確なものになるだけだった。




「また、穴を掘っているのか」
「たこつぼだよ」

とうとう日が落ちてしまった、寮へ戻る道すがら。
いくつも掘られたたこつぼと、更にもう一つ掘ろうと地面に鋤を付きたてた喜八郎に出会い、滝夜叉丸は呆れたようにそう声をかけた。
喜八郎の穴を掘る姿が、小平太の姿と重なって見え小さく舌打ちをする。

「お前はよくよく、穴掘りが好きだな」
「たこつぼだったら。あと、別に好きじゃあないよ」

八つ当たりじみた嫌みを言ったつもりだった滝夜叉丸は、喜八郎が自分の方をちらとも見ずに発した予想外の言葉に少なからず驚き、更に苛立った。

「じゃあ何故穴を掘る」
「……滝夜叉丸が戦輪を投げるのはどうして?」

のらりくらりと答える喜八郎の様子に、滝夜叉丸は先ほどから胸元で燻り続けている苛立ちが徐々に増幅していった。
滝夜叉丸が戦輪を投げるのは、それが戦いの場に於いて敵を討つ為に必要なことだと考えているからだ。
そのためならばどんなに辛い鍛錬だって堪えられる。
喜八郎だって、先刻まで共にいた先輩だって、同じ事だろうと思っていた。
それなのに、それなのに何故。

「敵を倒す為だ。質問を質問で返すな」
「敵を倒す為、他には?」
「人の話を聞いているのか?それ以外に何がある!」
 
その質問をぶつけたい相手は喜八郎ではない。
そんな事は滝夜叉丸自身も良く解っている。
それでも自分を押さえることが出来なかった。
苛立ちが増し、次第に口調が激しくなる。
喜八郎はそんな滝夜叉丸を意に介する様子も無く、漸く顔を上げると首を傾げて変なの、と呟いた。

「それじゃあもし、大切な人が危険な目にあったらどうするの?」
「だから、そんなもの敵を倒せば良いだろ!」

滝夜叉丸は意図せず苛立ちの原因に当る人物の顔を思い浮かべ、その人へ告げた言葉を半ば叫ぶように復唱した。
何故何奴も此奴も同じ事を言う!
私はそんなに可笑しな事を言っているというのか!?
間違っているとでも言うのか!?

「どうやって倒すの?」
「命をかけて!!」

それを聞いた喜八郎は大切にしているはずの鋤を地面に叩きつけるようにして投げ捨てると、雨が降っているにも関わらず天を仰いで大笑いをした。
滝夜叉丸はそんな喜八郎の姿に瞠目し一瞬腹立ちを忘れたが、すぐに羞恥にもよく似た怒りが込み上げ、喜八郎の胸倉を乱暴に掴み上げた。

「何が可笑しい!!」
「滝夜叉丸は、それで死んだら本望だって、そう言うんでしょ?」
「忍びにとってそれ以外何がある!私は……!」
「だから滝夜叉丸は馬鹿なんだよ」

滝夜叉丸の台詞を遮る様に発した喜八郎の声音は冷たく、ある種の侮蔑さえ込められていた。

「命に代えてでも守るなんて、単なる自惚れだよ。自己陶酔もいいところだね」
「何だと!?」
「違うって言うの?じゃあ滝夜叉丸は、自分が死んだ後の七松先輩の気持ち、考えたことあるの?」

喜八郎の口からするりと出てきたその名前に、滝夜叉丸はびくりと肩を震わせた。
喜八郎はもう笑ってはいない。
その代わり蔑みと憐憫が入り混ざったような表情で滝夜叉丸を見つめ、離してよね、と小さく呟いた。

「どうせその格好、七松先輩に同じ事言って塹壕掘にでも突き落とされたんでしょう」


見透かされている。

愕然とした滝夜叉丸は喜八郎が振り解くがまま胸倉を掴み上げていたその手を解いた。
先刻投げ捨てた鋤を拾い上げた喜八郎は、それを抱き締めて乱暴な扱いをしたことへの謝罪の言葉を述べながら、そのまま滝夜叉丸には目もくれず自室へ戻って行った。
滝夜叉丸の耳に届いたのは、疲れ切ったような重たい足音だった。





もしかしたら本当に仲間の死を既に垣間見ているかもしれない彼に、私は何て残酷な事を口走ってしまったのだろう。
喜八郎でさえも知っていることを私は知らなかった。
人を守ることの意味なんて、考えたことすらなかった。
命がけでも敵を倒せればそれでよいと思っていた。
血反吐を吐きそうになるほど厳しい全ての鍛錬も、戦輪を投げることも、そのために必要なことだと思ったからこれまで頑張ってきた。
それが正しいと思って。
それが全てだと思って。
だけれども。
だけれども、自分をも守れず命を投げ出すことが本望だと思っている奴に、一体何ものが守れるというのだろうか。
そしてその自己陶酔に満ちた自惚れが、一体どれ程彼を傷つけてしまったのだろうか。


自尊心も何もない、私はなんて愚かだったのだろう!



滝夜叉丸は、喜八郎がそうしたように天を仰いで大笑いをした。
自分を嗤いながら涙を零した。
先ほどまであれほど忌々しかったくせに、雨が降っていて良かったと、そう頭の片隅で思った。




雨足が更に増した。
激しく地面に叩きつけられた雨粒は、その刹那に散り、まるでそこに華が咲いたようだった。
雨中の花園。
明日も恐らく雨だろう。
滝夜叉丸は、明朝一番に小平太に会いに行くことを決意した。





END+++++





かつてこへ滝好きの友人に送った落乱処女作です。
文体を多少変えてはみたものの、文章崩壊半端ないっす!(^ρ^)
片仮名を極力避けたかったみたいだよ!意味が解らないね!
あと綾部が好き。
(10.06.28)







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