novel | ナノ

あやかしこいし 弐

 結局自室についたところで九兵衛は事情を話してしまい、寝付けるまで居てくれないかと頼みこんだ。
 恐れ多くも主人の自室。北大路は躊躇したがわざわざ本音を打ち明けてくれた彼女の意志を無下にすることも出来ず、承諾する。
 安心しきった九兵衛が敷かれた布団に潜り込む間、身の置き場に悩みながらもとりあえず枕元に坐した。すると不思議そうに見上げられる。

「一緒に入っても良いんだぞ」

 無邪気な顔をして枕の隣りをぽんぽんとたたきながら言ってのける。しかしこればかりは北大路も従う訳にはいかない。

「何をおっしゃるのですか」
「だって昔はよくこうして寝かしつけてくれたじゃないか」
「……子どもの頃の話でしょう」

 確かに寝付けずにべそをかく彼女のため、一緒の布団で添い寝したことはある。だがそれは九兵衛の年が10歳にも満たないときだ。今の二人では関係性が違う。

「主君ともあろう方が、そのような悪い御冗談を……」

 動揺を悟られまいと堅い表情で苦言を呈せば、心外そうに九兵衛が口を尖らせる。

「冗談などではない」

 ……ならば一層たちが悪いと、北大路は出そうになる溜め息をすんでのところで押しとどめた。

「……じゃあ、手を握ってくれないか」

 自分を窺い見ながらおずおずと右手を差し出してくる。その小さな手にいよいよ観念したらしい、北大路はためらいつつも控え目に握り返した。
 弱り切った従者をよそに、九兵衛は満ち足りた気分で顔をほころばせる。
 電燈は消され部屋にあるのは行灯の淡い光だけだったが、互いの顔を照らすには足りる。九兵衛が寝入れば北大路がその明かりも消して部屋を出ることになっていた。

「なぁ、見回りというのは真っ暗な中で誰もいない稽古場とかを巡回するのだろう? 北大路はその……ひとりで怖くないのか?」

 それは、まどろむまでの他愛のないおしゃべりのつもりだった。先ほどの一件からも分かるとおり、“お化け”とかいう存在のあやふやものに怯える心は彼には全くないように思われる。

「何であろうと柳生家に危険を及ぼすものが現れれば排除するまでです。見えないものへの恐怖より、それを見逃すことの方がはるかに恐ろしいですから」

 普段の理知的なたたずまいを裏切らず北大路の考えはいつも論理的だ。そう思うと尚更、先ほどまでの自分の怯えようが恥ずかしく思えてきて、ひょっとすると顔に出さないだけで内心は呆れられているのかなと重たい不安が九兵衛の胸に広がる。
 無意識に繋いだ手に力を込めていた。

「そうだよな。幽霊や怨霊などある筈ないのに……」

 怯えるなんて馬鹿げている、と天井に目を向けて自嘲気味に呟く。

「いえ、そうは思いません」
「え?」

 意外な言葉に思わず目を見張った。

「じゃあ、お前は信じるのか? そういう……得体の知れないものを」
「個人的に存在の有無を問う訳ではありません。仮にこの目に映らなくとも、若が存在を肯定するなら俺はそれを信じます。貴方が恐ろしいと感じるものは何としても取り除きましょう」
「なっ……」

 物事の全ての存在は主の判断に委ねると、彼はそう言っている。涼しい表情で答える様子に裏はなさそうだ。驚きと呆れを通り越した、ある種の感動に近いものが九兵衛から言葉を奪った。
 けれど改めて話を反芻してみればその突飛さに気がついて、だんだんと愉快な気持ちが込み上げてくる。子どものような意地悪だと自覚しながらも訊いてみた。

「ならば僕がいま『そこに首の無いお化けが居る』と指差せば退治してくれるのか?」
「それが若の安眠を妨害するつもりなら斬るでしょうね」

 無くなった首以外のどこかに目星をつけて、と北大路はいたって真面目に切り返す。それがおかしくて、九兵衛は布団の中で身をよじりくくくと笑いを噛み締めた。

「どのみち近くに刀を振り回す奴がいたら安心して寝られんぞ。――ともあれ、そういうことならお化けはお前にまかせて僕はさっさと眠るとするかな」

 やっとのことで笑いを引っ込めて北大路を仰ぎ見れば、彼はゆっくりと頷き返してくれた。それは九兵衛をとても穏やかな気持ちにさせる表情だった。
 瞼がだんだん重たくなる。夢うつつに「ありがとう北大路……」と呟くと、確かめるようにもう一度だけ手を握る。
 やがて小さな寝息が聞こえ始めるまでのしばらくの間、北大路はその枕元から微動だにせず主の安らかな寝顔を見守っていた。
 頃合を見計らったところで掴んでいた手をゆっくり離し、行灯の火を消す。一変、部屋はとろりと濃い闇に包まれ、障子の外から入る僅かな光だけが視界の頼りとなった。
 静寂と闇が作り上げる空間に九兵衛の微かな呼吸音だけが漂う。北大路は繊細なその世界を破壊してしまわないよう、自分の気配すら殺して溶け込んだ。
 そのときふ……と、障子越しに何者かが音も無く近付いてくる気配を察知する。いや正確には降って湧いたように、それは現れた。
 障子の青白さと対照をなして影法師がそこに映っている。不明瞭な形はヒトにも見え植物にも見え、また獣のようでもある。
 意思をもった墨が障子の上を這いまわるように奇妙な影はざわざわと蠢いていた。つい先ほどまで九兵衛に向けていたものとは全くかけ離れた厳格な鋭さで、北大路の眼はそれを見据えている。
 刺すような視線に触発されて影はいっそう激しくざわついた。興奮とも脅しともつかない、下卑た息づかいが障子ごしに聞こえてきそうだ。あからさまな嫌悪が、北大路の眉間に表われる。

「去ね」

 低く響き渡る声音でたった一言。しかし明確な言葉でもって、北大路はその侵入を阻んだ。
 こつぜんと、現れたときと同じように、それは姿を消した。白い障子には庭の草木の影だけが、静かに佇んでいる。

 北大路は主の方へと向きなおった。闇の中、その呼気が感じとれるほどにまで、近づく。
 彼にしてみれば当然、あの卑しいものに主の平穏が害されるなど、あってはならないことである。さいわい九兵衛は何にも気づいていないようで、よく眠っていた。
 北大路は安堵すると、あえて応えを求めない微かな声で若、と彼女に呼びかけた。

「真に恐ろしいのは目に見えぬ死んだ霊魂などではなく、気付かれぬ生きた愛憎ですよ」

 耳元で囁いた言葉は夢の中の彼女に届いたろうか。変わらずおだやかな寝顔と、規則ただしい寝息をたてる九兵衛に、しぜんと笑みが零れる。そして起こさぬよう十分に気をつけて静かに静かに――愛しい人の額へ、口づけを落とした。
 髪の甘いかおりが鼻腔をくすぐる。うすあかりに白く浮かびあがる喉から「ん……」と小さく声が洩れたのを合図に、唇をはなす。起きる気配はない。
 北大路はすやすやと眠る彼女に「おやすみなさいませ」と言い残し、部屋を去った。

 月あかりは自室へつづく縁側をあわく照らす。邸内の人間どころか、草木すら寝静まる時間だ。そこを音も無く進む自分に、はたから見ればこの姿も亡霊のそれに近いのだろうかと他愛のないことを考えては、北大路はひとり苦笑する。
 だがそれはあながち間違いではないかもしれない。
 かなわぬ夢を胸に秘め、愛慕に執着するという点において、彼はたしかに亡者であった。障子の先に蠢いていたあの影は、いうなれば己の鏡像だ。
 しかし何であろうと、主の平穏を脅かすものを近づかせるつもりはない。例えヒトであれ化生のものであれ、……醜い己の妄執ですら北大路は忠実な従者として、それらから九兵衛を護るつもりでいる。
 誰も知り得ぬ彼の矛盾を嗤ってか、どこかで猫がナァオと鳴いた。


――了――

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