novel | ナノ

きこえたから

 本当の静寂というものを最近になって知った。

 それは無音とは違う。日常において無音という状況は、まず無い。どんな些細な音も耳には確かに知覚されている。問題はそれらが心に届くか否かだ。静寂とは世界と自分とが断絶されたときに初めて感じられるものなのだと、そう悟った。

 静寂をたゆたいながら九兵衛は今日も一人微睡む。気がつけばもう数ヶ月以上もその部屋を出ていないのだが、別段現状に不満はない。彼が用意してくれたその場所は狭くもなければ広過ぎもせず、いつだって快適な状態に保たれていた。初めて此所に置かれたときには既に両の目の視力を失っていたので詳細は分からないが、九兵衛はその一室が嫌いではなかったし、そここそが今の彼女にとっての世界だった。

 右目は自らの手で潰した。片端ならばいっそ何も見えなくて良いと、そこに針を突き刺した。盲となって後、最も忠実に従ってくれるであろうその従者と二人っきりになって頼む。僕を此所から出してくれ、と。此所とは彼女を縛る家そのものを指していた。
 彼――北大路は普段命令を受けるときと何ら変わりない口調で「はい」と答え、その晩直ぐに、九兵衛を抱えて密かに屋敷を抜け出した。幾日かあても無くさまよい、やがて二人はいま住まうこの場所に辿り着く。
 何もかも任せきりでいたから詳しくは分からないが、恐らく彼はうまくやってくれたのだろう。お陰で誰の邪魔も干渉も受けることのないまま、時は彼女達二人を置いて過ぎ去っていく。

 実際見えないからか、九兵衛は自分の営む生活の容貌をよくは知らない。あまり知りたいと思うこともなかった。身の回りの世話は全て北大路がしてくれる。そして彼は九兵衛に何かを問われることを恐れているようでもあった。だから深くは聞かない。
 いつも何処へ行くのか、昼間彼が不在のとき彼女は一人部屋で大人しく過ごす。誰かの助けがなければ歩くことすらおぼつかないのだから当然だ。また、その唯一の助けとなろう彼も、この住家に辿り着いてからは一度も彼女を外に連れ出そうとはしなかった。窓から差す限られた陽の光以外、九兵衛に触れる外気はない。彼女の世界はその一室と、彼と、途方も無い静寂とで成り立っていた。
 空気がひんやりと薄暗い夕刻のものに変わる頃、北大路は帰ってくる。ガラガラという戸の開く音がその合図だ。それが聞こえると九兵衛は微睡みから起き上がり「北大路か」と呼び掛ける。彼は「ただいま戻りました」と返す。いつからか交わされるようになった決まりごとめいたやり取り。“帰りました”ではないところに毎回ほんの少しだけ、落胆。しかし気にしたところでどうなる。此所はあなたの家かと誰かに問われれば、九兵衛だって首を傾げるに違いないのだ。
 家に戻った彼に食事を与えられる。それから身体を清められる。外に出ることがないのだからそれ程汚れてもいないだろうに、北大路は毎日毎晩、割れ物を扱うが如く丁寧に九兵衛の身体を手入れする。九兵衛は一日の中でその時間が一番苦手で、そして一番好きだ。
 身綺麗にして後、彼の手つきは愛撫のそれに変わる。手で唇で、肢体の部分部分を確かめるように熱くまさぐる。そのくすぐったいような感覚に身を捩らせ、息を乱し、陶酔。
 中へ奥へと分け入る彼を九兵衛は拒まない。与えられるものが極限られている自分には、逆に全てを受け入れることこそが彼に出来る唯一の施しだと考えている。見えないながらも自ら手を伸ばし、彼を自分の中へと招き入れることもあった。


「貴女が望んだことです」

 しばしば彼は言う。ときに恍惚を帯びた甘い口調で。ときに憎しみを込めて苛立ちながら。ときに哀しみに引き裂かれそうな程、弱々しく。その度に九兵衛は頷いて肯定する。いつだって彼には感謝している。つもりなのに、あまり伝わっていないらしいのがもどかしい。だから九兵衛は彼を抱き締める。冷えた身体でその熱を奪う。
 夜毎に肌を合わせながら、時折他愛のない問答を二人は交わす。

「北大路、お前に恐ろしいものはあるか」
「……あります」

 予想外の答えに少し驚き、更に尋ねる。「それは何だ」

「貴女が、他の誰かに奪われることです」

 その現実離れした日常への転換は九兵衛の願いを叶え、北大路の欲求を満たしているのだろう。もし屋敷の誰かが九兵衛を探してこの場所に辿り着き、取り返されそうになったら、その前に自分を殺してくれて良いと九兵衛は彼に許している。
 家というしがらみから抜け出した割に、この生活に思っていた程の自由はない。しかし別段、自由が欲しかった訳でもなかった。何かを求めて此所へ来たのではない。逃れる為に行き着いたのが、此所だった。
 漠然とだが、この日々もそう長くは続かないような気がする。自分か彼か、この小さな世界そのものの均衡が乱れ崩壊する日は、そう遠くない未来に思えた。
 永遠に続くなら、それはそれで良い。

 その日も静寂の中で安らかに微睡む九兵衛の耳に、ガラガラと戸の開かれる音が響いた。



――了――

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