novel | ナノ

月香ーげっこうー

 北大路が自室へ向かおうと屋敷の縁側を通りがかったときであった。

「……若? こんなところで何をしておいでです」

 外に面したその縁側に腰掛けて一人佇む主の姿を見て声を掛ける。九兵衛は夜の帳がすっかり落ちた庭を眺めているようで、呼び掛けられてはじめて彼の存在に気付いたようだ。

「北大路か」

 振り向くとその姿を認め再び外へと視線を戻し、

「見れば月が綺麗だったのでな。ここで一人、月見酒と洒落込んでいたところだ」

 答えて、その手に持っていた盃を掲げた。

「どうだ、お前も一杯」

 気軽な誘いではあったが、そこで断る北大路ではない。「ではお言葉に甘えて」と一礼すると九兵衛の座るその隣りに座す。
 もともと一人で呑むつもりでいたので盃はそれ一つ、九兵衛の飲み差しであった。少し躊躇ったが彼女が気にもせずに差し出してきたので、そのまま何も言わずに両手で受け取る。

「そう堅くなるな」

 その一瞬たりとも緊張を解かない所作に思わず笑って、九兵衛は言った。それでも北大路は僅かに頭を下げてみせるだけでその慇懃な態度を崩したりはしない。しょうがないなと溜め息をつき、しかし表情は穏やかに九兵衛は盃に酒を注いだ。甘い香りが届いた。それは酒の香りであったが、そこに微かに九兵衛のものも混じっていることに気付いて北大路の鼓動は僅かに跳ねる。
 自身に芽生えたその動揺を誤魔化すかのように、注がれた酒に口をつけた。果実のような甘酸っぱさのある、女好みのする酒だ。甘い熱が喉を撫ぜる。
 北大路が盃に口をつけたところで九兵衛が再び口を開く。

「思えば今日は仲秋の名月だったな……」

 多少雲は陰っているものの秋の夜風に吹かれて動く空模様は時折満月に霞みをかけたり完全に多い隠してしまったり、かと思えば柔らかな月明りが地上に差し込むようにさっと身を引いたりと、かえって風流なものであった。今もまた厚い雲に覆われ月は半身を隠していたが、空の動きを見ると間もなくそれも晴れるだろう。
 秋風は夜空の雲だけでなく縁側で月見に興じる二人にも吹きすさぶ。結構な時間そこに居た九兵衛は今頃になって肌寒さを感じ、僅かに身をこわ張らせた。
 すると突然、温もりがふわりと彼女の身体を包み込む。驚いて見ると北大路が自らの上着を脱いで九兵衛の肩に掛けたのだ。

「風邪を引かれては困りますので」

 主が何か言葉を口にする前に決然と。その事務的な物言いが何だか可笑しい。最初は驚いた九兵衛だったが彼の好意を素直に受け取ることにした。

「悪いな」

 礼を述べるつもりの台詞であったが言ってから何か違うなと気付き、すぐに言い直す。

「…ありがとう」

 途端に自ら発したその言葉の初々しい感覚に気恥ずかしくなり、思わず九兵衛の頬は熱くなった。なんで僕は照れてるんだと心の中で自問し、夜空でも相手の方でもない中空に視線を泳がせる。困ったことに北大路が掛けた着物の温もりが一層彼女の動悸を逸らせていた。
 そのとき、まるで時機を見計らったかのように月が顔を覗かせる。阻まれることのない月明りはからかうように九兵衛の赤く染まった頬を照らし出す。――意地の悪い満月だ。それとも責めるべきは秋風か、まばらな雲か。
 赤面しているのを気取られないように顔を背け、再び呑もうと彼の手元の空になった盃に手を伸ばした。顔が熱いのは酒のせいだと自分に言い聞かせ、取り繕うように早口に言う。

「やはり冷えるな。お前も風邪を引いたら大変だし、もう一杯もらったら月見もお開きにしよう」

 そして盃を手にした、――そのときだった。

「!」

 先ほどまで盃を持っていた北大路の手が今度は伸ばされた九兵衛の手首を掴んでいる。驚いて反射的に腕を引いたが意外に強く握られており容易には振り払えない。秋の夜風に冷えた彼女の肌にはその温もりがまるで火のように熱く感じられ、その熱が伝導するように九兵衛の身体もかぁっと体温を上げていく。それは突然の所作に対する怒りの為だと彼女自身解釈したが、急激な体温上昇の要因が恐らくそれだけではないことは確かだった。

「お前、何をして……」

 赤らんだ顔を隠すことも諦めて、怒りと困惑の表情で九兵衛は北大路を見上げる。しかしその先にあった相手の顔に更に動揺することとなった。
 月明りが照らす北大路の目許は恐らく自分に負けないくらい赤く上気し、その熱を含んだ瞳は切なげに細められている。初めて見る気がする彼の表情に九兵衛は暫し抵抗することを忘れ、ただ呆然としてそれを眺めた。
 北大路は九兵衛の手を放しはしなかったが、それ以上何かする素振りも見せない。月が照らす光の中で、二人はただじっと見つめあった。

「……?」

 とそこで、九兵衛は違和感を感じる。確かに自分は北大路の目を見ているが彼の目線が微妙に合っていないことに気付いたのだ。方向は確かに自分の目に向けられているがその焦点は極めて朧気である。そう、まるで酩酊してるかのような。
 ……まさか、酔払っている?
 彼が呑んだのは盃にたった一杯だけ。それで思考がままならなくなるほど酔うとは普通は考えられない。
 だが思えば九兵衛が酒を嗜むようになったのは武者修行に出ていた頃の話。彼女もそれ程呑む方ではなかった為に従者らと酒を共にするのもこれが初めてで、北大路が一体どれ程呑めるのか実のところ知らないのである。そういえば四天王の他の者が食事中に酒を呑むのをみたことがあっても、北大路が呑んでいるところを目にした記憶はなかった。
 その考えを確認するように九兵衛は再び北大路の顔をよく観察する。目許が特に赤く、じんわりと尾を引くような熱を持っているようだ。その赤さが自分のとは別の種類の熱によるものだと確信すると、やはり北大路は酒に酔ってるのだという結論を出した。安堵したのか呆れたのか、自分にもよく分からない溜め息が思わず漏れる。
 仕方がない、酒に付き合わせたのは自分だと、介抱するつもりで北大路の腕を肩に回した。手首を掴んでいた手はいつの間にか力が抜けていて、あっけなく解ける。

「立てるか、北大路」

 力に自信のない九兵衛ではなかったが、身長差から自分一人で支えるには流石に無理がありそうだ。これで立てなかったら人を呼ぼうかとも考えていた。
 すると気怠げにうなだれていた北大路が顔を上げ、九兵衛の方に向き直る。二人で肩を組むようにしていた為に、互いの顔がかなり近いところにあった。少し苦しげな北大路の息遣いすら感じるその距離に、九兵衛は焦る。対照的に北大路は意識すら朦朧としているのか全く気にする様子もない。不意に彼の唇が言葉を紡いだ。

「若……」

 だがそれきり、言葉は続かない。再び黙って、ただ胡乱な瞳で九兵衛を見つめる。しかしその声は慣れ親しんだ普段のものとは明らかに異なった温度と酒の甘い香りを含んでいて、九兵衛の心を大きく波立たせた。それでなくてもこの至近距離だ。緊張に心臓の鼓動が強く速く彼女の胸を打つ。

――まずい。このままだと多分、まずい…。

 何がどうまずいのかは具体的には分からなかったが勝手に赤らむ頬と本能で九兵衛は察した。現時点での北大路の様子はむしろ無害そのものなのだけれど、このままこの距離で彼の呼吸を温度を感じ己の動悸がこれ以上激しく脈動するのは危険な気がする。もう、後には引けなくなるような。
 人を呼ぼう。観念したかのようにそう決めると、結局立ち上がれなかった北大路の腕を一旦肩から下ろし人の気配があるか辺りを探る。
 彼女が人を呼ぶのを躊躇ったのは今が夜であるということで、多くの者が一日の疲れを癒そうと休んでいるときに呼び付けて手間を取らせては悪いと考えたからだ。しかしそうも言っていられない事態に、せめて起きている者に助けてもらおうと灯のともる障子を探した。
 幾つかそれらしい部屋を見つけ、とりあえず一番近い部屋に掛け合ってみようと九兵衛は動きだす。その場を一度離れる前に、聞こえてるのかは分からないが一応北大路に「人を呼んで来る」と一言断る、……つもりであったのだが。
 ぐわん、と酩酊した彼の頭が前後に揺れると、そのまま正面に立つ九兵衛の身体に倒れかかって来た。避ける訳にも行かず咄嗟に両腕で抱き留めるが、一人の男の体重を支えきれずそのまま崩れるように後ろへと倒される。

「うわぁああ!!」

 思わぬ事態に焦り混乱した彼女は夜のしじまをはばかることも忘れ、声の出るままに叫んだ。

 途端に悲鳴を聞き付けた者が何事だと廊下にまかり出てきて、柳生の屋敷は一時騒然となる。寝入りばなだった東城も主の叫びを耳にすると直ぐさま布団から跳ね起き

「如何なされました若ぁぁぁあ!」

 とこちらは元より辺りを気遣うつもりのない大声とともに全速力で駆け付ける。辿り着いた先の彼女が北大路の下敷きになっているのを見るとその顔からさっと血の気が引くのが誰の目にも見て取れた。

「北大路! 一体何をしているのです!」

 見る見るうちに鬼のような形相に変わると、

「とにかく若を押し倒すなど言語両断。そこに直れ!」

 東城が持っていた自身の刀に手を掛けたので九兵衛が慌てて止める。

「待て、早まるな! ともかく北大路を助け起こしてくれ」

 東城は未だ鼻息荒く、しかしその命令通りに刀を抜くことを止めると、北大路の肩をぐっと掴みやや乱暴に引き起こした。無事這い出ることが出来た九兵衛はほっと息をつく。

「これは……」

 北大路の様子を見て、東城は何やら合点がいったようだ。九兵衛の方に向き直ると、まさかと問い掛ける。

「ひょっとして北大路は、酒か何かを口にしましたか」

 口にしたも何も、九兵衛がさせたのである。うん、と頷いて今度は九兵衛が東城に訊いた。

「こいつは全く酒をやらんのか」
「やらないどころか、一口飲んだだけで意識が混濁するという位酒に弱いのです」
「……まさか」

 だが目の前には実際に潰れている北大路がいる。俄かに信じがたい程の話だが、どうやら本当のことらしい。

「だとしたら悪いことをしたな」

 今は東城に支えられ、くたっと項垂れる北大路を見て申し訳なさそうに九兵衛は言った。

「ご存じなかったのですから仕方のないことですよ。とにかく、部屋に運びましょうか」

 うなづいて、あたりに集まった門弟やら使用人やらに重々詫びをいれると、東城の肩も借りて二人で北大路を部屋へと運んだ。動けないのか既に眠ってしまったのか、彼の身体はほとんど引きずられるような形になっていた。
 北大路の部屋に着き布団を敷いて、死んでいるかのようにぐったりと目を閉じる彼をそこに横たえる。これはしばらく起きられないだろうと推し量り、九兵衛は本人に代って眼鏡を外してやる。その折り、苦しげに寄せられた眉間に指先でそっと触れてみた。そんなことが気休めにもならないことは百も承知だが、いたわろうとする気持ちの方が強く出た。それでもその場に東城が控えていることもあって、気取られる前にすぐに手を離す。

「このまま朝までは起きないだろうな」
「明日の稽古も無理かもしれませんね」
「仕方ない。僕にも責任はあるのだし」

 北大路の呼吸がだいぶ落ち着き寝息のそれに変わったこところでようやく安堵し、夜も更けているということでいい加減自分も部屋に戻ろうと九兵衛は立ち上がる。明りを消し北大路の部屋を後にして東城に礼を言う。いえいえ、と柔和なほほ笑みが返ってきた。

「折角ですから若も部屋までお送り致しましょうか?」

 ついでに添い寝も……と付け足してきた彼の申し出を即答で断り、九兵衛はさっさと踵を返し部屋に向かった。

 北大路の着物を肩に掛けたままでいたことに気付くのは九兵衛が自室の窓から再び夜空を見上げたときである。丸い月は最後にその目で見たときに比べ随分と傾いた位置に来ていた。いつの間にか空は晴れ渡り阻まれることのない青白い光は明りのない部屋に柔らかく差し込む。
 そのなかでうっかり借りたままになってしまった上着を見ていると、何故だか先ほどの動悸が胸に甦ってくるようだった。冷えた肩に掛けられた、北大路らしいさり気ない優しさ。いつもとは違う瞳の色。間近で感じた彼の息遣い。月明りが幻灯となって、九兵衛の心にそれらを映し出す。
 そういえばあのとき北大路は何を伝えようとしたのだろう。苦しそうな呼吸のなかで呼ばれたことをふと思い出す。……しかし所詮酔いのうちに出た言葉だ、意味は無かったのかもしれない。らしくもなく思いを巡らしている自分に呆れながら、ざわめきだす動揺を払うように頭を振るう。今わざわざ戻るのもなんだしこれは後日返そうと着物を丁寧にたたんで、窓の障子を閉めると布団に入った。
 今夜は満月、明日は十六夜。月は夜ごとに姿を変え、そして巡る。そんな当たり前のような些細な日常の変化を無意識に感じ――、さて明日北大路と会ったときどんな顔をすれば良いのだろうと幾許の懸念を抱きつつ、やがて九兵衛は睡魔に誘われるまま柔らかな眠りに落ちた。


――了――

prev / next

[ back ]


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -