novel | ナノ

幸せの加法と乗法

「子どもが出来た」

 夫婦となり二人で暮らすようになってから早一年。本来なら何時も通りの一日で終わる筈だったその日、家に帰ってきた北大路を迎えた九兵衛が「おかえり」の次に言ったのは、そんな台詞だった。
 それがあまりに突拍子もない切りだし方だったので流石の北大路も何も返せず、ただ彼女を見返す。だから駄目押しにもう一度、

「斎。僕達の、子どもが出来た」

 そう言って自身の下腹辺りに手を添えてみせた。
 わざと何でもない振りをしていた表情も徐々に明るさを露にし、一体どんな反応を示してくれるか楽しみで仕方ないといった様子で相手を見上げる。北大路はというと虚を突かれ、すっかり言葉を失っているようだ。
 かと思えばその直後、九兵衛の身体は彼の腕の中に納められていた。その細い体躯を壊してしまわないように気を付けて、けれど力強く抱き締める。驚いたものの九兵衛は幸せそうに微笑んでしばらく何も言わずに北大路の胸に頭を預けた。

「……九兵衛様」
「うん?」
「いつお気付きになられたのですか?」
「一週間前からそうかなと思い始めて、今日病院に行ってみたらもう一ヶ月だと言われた。早く伝えたくて、お前が帰ってくるのが凄く待ちどおしかったよ」
「それは申し訳ありませんでした」
「あ、いや、そういう意味じゃないんだ。ただ早くお前の反応が見たくてな。喜んでくれるかな、って」
「ありがとうございます。――凄く、幸せです」
「うん」

 少ない言葉の中でもはっきりと伝わって来る。彼の喜びに九兵衛の心も満たされた。きつく抱き締められているために窺えないが、恐らく滅多に変わることのないその表情も今は嬉しそうな顔をしているに違いない。それを想像するとまた自然と笑みが零れた。

「お父上や、東城殿達には?」
「まだ伝えてない。一番にお前に知って欲しかったから。…明日言いに行こうと思う」
「きっと皆お喜びになられます」
「ああ。お祖父さまなんかは『孫の顔を見るまで死ねん』なんて言っていつも僕らを急かしていたしな。……そもそも、僕が孫なんだが」

 九兵衛の言葉に今度は二人でくすくすと子どものように笑い合う。同じ幸せで胸を満たして。


「……斎」

 北大路の腕の中に収まっていた九兵衛が、今度はその両腕を北大路の背に回してきた。声音が少し変わったことに北大路はどうしたのかと黙って次の言葉を待つ。表情は彼の胸に埋められていて窺い知れないが、彼女が固く拳を握り締めるのを背中の上に感じた。

「僕、ちゃんと『お母さん』になれるかな」

 その声が僅かだが震えていることに気付いて、北大路はしばし物を言う事が出来なかった。その代わりに更に強く九兵衛の身体を抱き寄せる。彼女も縋るように腕の力を強めた。
 物心つく頃から母という存在を知らずに育った九兵衛は、子どもを生む喜びを感じると同時におそらくとても不安なのだろう。ましてや凡そ多くの女とは異なる生き方をしてきた自分が正しく『母親』というものになることが出来るのか。子を育てるときどうあるべきなのかが、彼女にはまだよく分からなかった。固く握られた小さな手はそういった心許無さを切実に伝えてくる。
 しかしそんなのは杞憂だと北大路は思う。だからこそその不安を拭うよう優しく頭に唇を寄せる。求めてやまない温もりに少しほっとしたのか、九兵衛は張り詰めていた呼吸を解き放った。その勢いで堪えていた涙が一筋頬を伝う。

「きっと、立派な母君となられましょう」
「そうか、な」
「ええ、俺が保証致します」
「うん……ありがとう」

 顔を上げて、寄せられた彼の頬に口づける。改めて顔を突き合わせると北大路はとても優しい目で見下ろしてくれていた。彼の左手が目許に添えられて、きらきらと輝く雫を指先が掠っていく。
 その優しい手が離れてしまう前に上から自分のそれを重ね、とても満ち足りた気分で九兵衛は安らかに瞳を閉じた。間もなくして、唇に温かく柔らかな感触。互いに何度となく味わってきた甘さの尽きることのない接吻を交わす。
 重ねられた二つの手は自然と指を絡ませて、固く固く繋がれていた。それは確かに約束された、二人と新たな生命(いのち)の幸せだった。


――了――

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