novel | ナノ

箱庭に差すひかり

 息をつく余裕も与えられない程深く荒々しい口づけだった。ぞろりと歯列をなぞって、奥に縮こめていた舌を絡めとられる。背後には冷ややかな壁の感触。熱い腕に引き寄せられ、顔を背けることすら出来ない。されるがままの口許からはどちらのものとも分からない唾液がつと零れた。
 苦しさを訴えるように胸のあたりをぎゅっと掴まれたところで北大路は唇を解放する。互いの口と口の間に銀糸がひく。ようやく自由な呼吸を取り戻して、九兵衛は恨めしげに彼をひと睨みした。

「誰かに見られでもしたらどうする」

 二人が立つのは柳生邸内の中廊下。いくら屋敷の外れでしんと静まりかえっているとはいえ、いつ門弟や使用人が通りがかるとも知れない。家の者達にこのようなところを見咎められれば、おそらく騒ぎは避けられないだろう。道場の次期当主とその従者の色ごとなど……。
 にもかかわらず北大路はまだ九兵衛をその腕から離さない。互いの呼吸さえも感じられるその距離は誰かに見られるかもしれないという不安以上に彼女の鼓動を逸らせた。もし再びあの口枷にも似た強引な接吻が交わされようとしても、拒むことなど出来ないだろう。
 しかしそうはせず、北大路は静かに言った。

「でしたら……このままどこか二人で、誰も知る者のいない処へ行きますか?」

 淡くほほ笑みを浮かべて。けれどその目は切実で、ひどく心細いようであった。それを見なければ冗談を言うなと笑い飛ばすことだって出来たかもしれない。それ程におよそ普段の彼らしくない言動であり、そして決して無下にしてはいけない切迫した態度に思えた。
 戸惑った九兵衛が答えに窮した瞬きのうちに、おそらくいつもの自身を思い出したのだろう。北大路は突然すっと身を引くと

「申し訳ございません。今のは忘れて下さい」

取り繕うように眼鏡を指で押し上げながら、先ほどとはまた違う哀しい笑みを顔に貼り付けて言う。
 くるりと向けられた背に言葉が出ない。未だに彼の熱い温度を残した唇ばかりが小刻みに震え、視界が滲む。何か声をかける前に気がつけば身体が動き、その広い背中へ夢中で縋りついていた。
 歩みを進める彼が縛りつけられたかのように硬直する。背中に宛てられた九兵衛の頬に彼の激しい心音が響いた。

「若……っ」
「行くな北大路」

 もどかしい感情ばかりが胸に詰まって折角出てきた言葉もひどくちぐはぐなものに思えてならない。伝えるべきことを選べない己に苛立ち、ただ無力に相手の腰をきつく抱きしめてばかりいた。しかしその二本の細腕と背中に直接伝わる体温が、言葉で語る以上に北大路の閉ざされた感情を呼び覚ます。白い手首を掴んで身を翻し、小さな体躯を求めるままにかき抱いた。
 九兵衛ももはや息苦しさなど気にもかけず、瞳を閉じて視覚以外の全てで彼を感じる。北大路の指先、掌、腕、胸板、頬、唇。時折触れる眼鏡の蔓と艶のある黒髪だけ、少し冷たい。大きく脈打つ心音は果たしてどちらのものか。息を大きく吸い込めば、とても親しんだ匂いに満たされ安堵する。それは凛冽として美しい、冬の雪に似ている気がした。

「貴女が愛しい」

 耳元で甘く低く、苦しげに囁かれる声。従者としての理性と抑えようのない想いの間に揺れて今にも消えてしまいそうなそれは、九兵衛の心にある一つの決意を抱かせる。
 背中に回していた腕を離し、両手で北大路の頬を包むように挟んで二人の視線を合わせる。少し驚いたように真っ直ぐ見下ろしてくる彼に九兵衛はほほ笑んで

「斎、結婚しよう」

微塵の迷いもなく、そう告げた。

「…………」

 まるで彼一人だけの時間が止まっているかのような空白の間。九兵衛は笑っているものの、その目は真剣そのものだった。澄みきった隻眼に射貫かれるような感覚すら覚える。

「お前は僕が幸せにするよ。お前がずっと僕を支えてきてくれたように、これからは僕がお前を護ろう。もう、自分の心を殺さなくて良いんだ。……僕たち、幸せになっても良いんだ」

 言い募る程にその表情は晴れ渡り、希望に満ちていった。はじめ当惑の色を見せていた北大路も、かすかにではあるがだんだんとその瞳に彼女と同じ光を宿していく。

「皆に話そう。愛し合っているんだと、胸を張って伝えよう」
「しかし……許して、頂けるでしょうか」
「話せば父上達もきっと分かってくれる」

 それに、と九兵衛は笑みを悪戯っぽいものに変える。

「どうしても駄目だと言われたのなら、誰も知る者のいないところへ二人で行けば良いのだろう? ――それとも、さっきのは本当に戯言だったのか?」

 首を傾けて尋ねる所作は邪気のない子どもを思わせた。遠い記憶の果てに薄らいでいた愛らしい少女の姿がそれに重なる。幼き頃より想い続けてきた人が今、幾数年の時を経た姿で目の前に立っている。あの頃以上の強さと美しさを備えて。
 不意に目尻から何か熱いものが溢れて頬に伝うのを感じた。自分が涙を流したのだと気付くのは、その雫が九兵衛の頬にぽたりと一つ落ちてからだった。嗚呼と声に出さず感嘆し、同時にひどく懐かしい気にさせられる。申し訳ありませんと謝れば、九兵衛は首を振って優しい笑みを浮かべながらそれを指先で拭ってくれた。
 一度彼女から身体を離し、北大路はその前に跪く。

「この北大路斎、これからは一介の従者ではなく人生を分かち合う伴侶として貴女を護り、愛していくことを此所に誓います」

と、下げていた頭を真っ直ぐに向け直し

「どこ迄も、お供致しましょう――九兵衛様」

晴れやかな表情で、愛しいその名を呼んだ。そして次の瞬間には、温かい彼女の胸の中に抱かれていた。

「……愛してる、斎」
「俺も、です」

 かたく抱きしめ合い、今度は九兵衛の方から唇が重ねられる。そうしていれば暗く狭いその場所もまるで幾千の光に満ち溢れているかの如く、きらきらと輝いて感じられた。それはいつであったか並んで見上げた夜空のように。清らかな、温かな想いに二人の心は優しく染め上げられた。


――了――

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