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―愛を刻む秒針を、破壊するために。
読み終わった本をもう一度読み直すのは、苦痛の伴わない柔らかな時間の殺し方だ。行儀良く並んだ文字列を目で追っていく。
「また本読んでる、ふふふ」
バスルームから出てきた入が、濡れた髪をタオルで挟み込むように拭きながら、私のとなりに腰をおろす。パステルピンクのソファーには、一緒に選んだ彼女の好みも大いに反映されている。
「あの入浴剤どうだった?」
上品なパッケージが入のイメージにぴったりだと思って、雑貨屋で一目惚れしたバスパウダー。それがなくても、ボディソープもシャンプーも拘りを見せる入とお揃いのものを使っているから、私はお風呂場に行く度に彼女のことを思い出す。
「んー…ちょっと匂いが甘過ぎるかも」
そう言って小首を傾げる入が私の部屋に居るのは、最早当たり前の光景だ。元々多い方ではなかったアカデミー時代の友人は、卒業と共に減り続け、今では入くらいしか残っていない。彼女にしたって同じらしく、時間が許す限り一緒にいるのが暗黙のルールとなっていた。依存であり、惰性である。自覚はあったが、学生の頃とは事情が異なり、それを指摘してくれるような相手はもう私たちの周りにいない。私はこれでいいと思っている。この関係が最善だと。優秀過ぎるが故に同世代の人間のなかでは孤立しがちな入の唯一人の友達。彼女からは都合のいい女としか捉えられていなくても、それでいいじゃないか。

例えば、私の朝は一杯のミルクティーから始まるが、その茶葉は入が飲みたいからと私の部屋に買い置きしているものだ。減ってきたら律儀に補充する。今朝剥げていることに気づいて、慌てて塗り直したオレンジのマニキュアも、誕生日に入から貰ったものだ。彼女のお気に入りのブランドの定番の一品。前髪を絶対に短く切らないのは、その方が可愛いと言って入が譲らないからだ。
「聞いとる?」
パスタをフォークに巻き付けながら、入が尋ねてきた。反応のない私に焦れたらしい。今日のランチは可愛らしい喫茶店の日替りメニュー。二人とも休みの日はうんとお寝坊して、昼下がりに外食をするのがお決まりのパターンになりつつあった。
「聞いてるよ、それで?」
大袈裟に言って、私の人生が入を中心に廻っているのは、そもそも私の価値観が曖昧なのが大きな要因だろう。穏和そうな見掛けをして、実は頑固なほど拘りが強い入とは大違いだ。助かっている部分はとても大きい。優柔不断な私では、決められなかったであろう、あれこれ。入の不在を想像すれば私の血の気は容易く引いていく。喧嘩別れだけは避けなければ。厭きられるのも悲しいから嫌だ。職業柄、一番あり得そうなのは任務失敗による入の突然の非在だが、生憎彼女は強いので私は普段その可能性を無視してしまっていた。
「郡先輩ってば、最近は休憩の度に喫煙所でぇ…」
郡というのは入と特別親しい男性だが、先日の人事以来彼女の所属する班を率いている。入に紹介されたから、というだけの理由で、十代半ばの頃に端整な顔立ちをした彼に憧れていた時代があったのも、今ではいい思い出だ。
「休憩時間はどこの班長もそんなかんじなんじゃない?」
口調から、プライベートな話題というよりは仕事の愚痴だと判断して、笑いながら相槌を打つ。
「有馬さんにご飯に連れて行って貰った時だって、」
私は現在、CCGの死神こと有馬特等の下で働いている。入と入れ替わりに配属されたので、彼女が特等とどのように接していたのかは知らないが、彼女の心酔っぷりから推測して険悪ではなかったのだろうと思っている。だから話題に出したのだが、逆に良くなかったようだ。
「………」
伏し目がちにして、眉根を寄せる。他人の言動を愉快に思わなかった時に、入が作りがちな表情。
「どうしたの?」
私は内心冷や汗をかきながら尋ねた。ペペロンチーノは中途半端にフォークに引っかかっている。
「…有馬さんとご飯とか行くんだ」
ポツリと吐き出された一言。それだけで、入が有馬特等と食事をしたことが無いことを察して、私の血の気は引いていく。そこは平等にしといてくれよと、ここにいない男を恨んだところで時既に遅し、口から出した言葉は返せない。親友の彼に対する度を超した憧憬が、恋慕の域に達しつつあることはわかっていたのだから、彼女の機嫌を損ねたくなかったのなら、私はもう少し慎重になるべきだったのだ。
「最近は暇なんだろうね、天下の有馬さんも…あははは」
フォローしたつもりが、上手くいかなかった。立て続けて組織的な喰種の大規模な活動が目撃されている現在、暇な局員なんて居る訳ない。
「そういえば…一昨日郡先輩がね、」
入が唐突に、けれどおっとりとした口調で話題を変えた。これ以上はナンセンスだと判断したのだろう。それにしても、二言目にはまた宇井さんの名前。入の周囲には極端に人が少ないため、ある程度は仕方ないとはいえ、彼女の口から所有物のように発せられる彼の名前に、傷付いていた時期があったことを、私は今日まですっかり忘れていた。

サラダバーを全種類均等に、それも見目麗しく盛り付けるところからは彼の好みは窺えない。私の分のお冷やも注いできてくれるところだけとれば、優しい人なのかもしれない。有馬さんはお箸をとても器用に使いこなす。
「よく下の子とご飯行くんですか?」
そう尋ねてしまったのは、他に喋る内容が思い付かなかったことと、入の言葉が耳の奥に残っていたからだ。私の行動原理はいつだって彼女である。信愛よりは支配によく似た、その在り様。
「そうでもないよ」
短い答えに続く、柔らかな咀嚼音。入には黙っていたが、仕事柄、私は昼食の殆どをこの男と二人で摂っている。
「…ああ、丈とは結構行ったかも」
「それ、わりと昔の話でしょ」
少なくとも、平子さんが有馬さんと組んでいた時代を私は知らない。誰もが技術を磨き、通過していく。有馬貴将とはそういう場所だ。最早、プログラムに近い。私はどうしても彼に人格を認めることができないので、入を含め、彼に熱をあげる女性局員が多数存在することが以前から不思議で堪らなかった。
「昔から、食事の相手は選ぶ方なんだ」
それは百点満点の回答だった。私が欲しかった文言。知っています、と。私は胸の内だけで頷く。だって、直属の部下だけでも他に何人かいるのに、有馬さんは絶対、私しかランチに誘わない。

それでも週末はやって来て、私は決まり事のように粛々と、それにしては刹那的に燥いで、入と食事を摂っていた。今日のメニューはオムライス。ケチャップだけでシンプルに味付けしたのは冷蔵庫に他のソースが無かったからだ。
「付いとるよ」
向かいに座った入が、その細い指先で自分の口の斜め上あたりをポンポンと突く。珊瑚色の爪と白い頬の対比がなんとも艶めかしい。
「喰種みたい、ふふふ」
揶揄しながら、入は手近にあったティッシュペーパーで私の顔を拭いにかかる。子供のようにされるがままになりながら、染まった頬を誤魔化すように大袈裟に膨らませた。
「入のほうがよっぽど喰種みたいだよ」
彼女の人間離れした強さと美しさを思い描きながら言った。これは讚美だ。伝わりにくいだろうけれど。
「せめて死神みたいって言ってよ」
冗談の中に見え隠れする、入の陶酔。あれ以来、死神と呼ばれる男の話題を私の方から彼女に振ることは無かったが、入自身は彼の話が聞きたかったのかもしれないと思った。随分と血生臭い職に就いてしまったが、我々は未だうら若き乙女なもので。
「死神なんかより、入の方がよっぽど綺麗なのに…」
それでも入はあの男を世界で最も尊いものとして扱うのをやめないだろう。頑固なのだ。一度これと思い定めたところから、天地がひっくり返っても動こうとしない。柔らかなのは物腰だけ。そんな入に惹かれ続けているのは、きっと私だけじゃない。

それでも、私の価値観が入の影響を大幅に受けやすいことは前述の通りである。あまり座ることのない事務所のデスクで、ともすれば溜めてしまいがちな報告書を惰性的に埋めながら、同じような書類を、私とは異なる涼しい顔で書き込んでいく上司をチラリと盗み見る。整った顔立ちはしている、と思う。派手ではないが、女ウケは良さそうだ。眼鏡だし。
「どうかした?」
ピーピングのつもりが、いつの間にかガッツリ見てしまっていたようだ。有馬さんはボールペンを置く。書き終えたらしい。
「手伝ってくださいよ」
「それで最後なのに?」
私の即席の冗談に、有馬さんは愛想程度に笑った。それから、ふと真顔になって、先程のお返しだと言わんばかりに私を見詰めてくる。
「な、何か?」
長い指が、此方に伸びてくる。奇妙な既知感。有馬さんの動きは昨日の入に似ていた。
「いい匂いがする」
骨張った指先に髪が一房絡めとられた。シャンプーの香りが漂う。入の好きな匂い。
「あの…」
デスクワークを始めた時点で、定時は過ぎていた。窓の向こうの月は明るい。入はもう帰ったのだろうか。女性の一人暮らしにしては些か殺風景なあの部屋に。
「今夜は遅くなっても平気かな?」
彼女の憧れが、あまりにも無機質なまま、ありふれた男のような口をきく。知らず知らずのうちに、私は頷いていた。


猛毒と読解
2016.02.05 タイトルをくれた美しい人へ