約束
二人だから
たぶん、ぼうっとしていたんだろう。
かなり低い位置から、少年の心配そうな双眸が見上げている。
大丈夫、と軽く手を振り、氷の大地を踏みしめた。
寒い寒い言い過ぎたかな、と自らの言動を省みる。馬鹿馬鹿しい話だ。
でも、そうでもしていないと、何だか壊れてしまいそうで。
紛い物の心臓が、震えて音を立てた気がした。
エステルが捕らえられているザーフィアスを目指すも、アレクセイに阻まれバウルは負傷。
カプワ・ノール近くまで吹っ飛ばされ、あげくにエフミドの丘は通れないときた。
ほぼ消去法で、流氷漂うゾフェル氷刃海を通ってハルルへと抜けるしかない。
寒いのは苦手、これは本当だ。
けれどそれ以上に、周囲の変わらぬ態度がレイヴンの足を重くしていた。
そしてそれは、ハルルに到着した後でも変わらない。
一晩休んでからザーフィアスに向かおうと、ハルルで宿を取った。途中、巨大な魔物と一人で対峙したカロルはだいぶ消耗していたし、他の皆も氷刃海を抜けたことで疲労の色は濃い。
早くと焦るユーリとフレンを宥め、宿の一室へ押し込むと程なくして寝息が聞こえた。
それを耳に、レイヴンはふらりと外へ出る。
はらはらと花びらが舞い散る中で、昼間の状態を思い起こした。
ハルルには、ザーフィアスから避難した貴族たちが多くいた。それに反し、下町の人たちは目にしていない。
ユーリやフレンが急ぎたいのも、エステルだけではなくその辺りの事情が大いに関係しているだろうことは、簡単に想像がつく。
ため息をつきながら、レイヴンは坂を登った。
頭上には、咲き誇るハルルの花。ぼんやりとそれを眺めていると、鼻の奥がわずかにツンと痛む。
駄目だ、と軽く頭を振った。
「なにやってんだよおっさん」
後ろからの声に、振り返ろうとした体が強張る。
それでも、ゆっくりとそちらへ向きを変えた。眉尻を下げ、口角を上げたユーリがいる。
笑っている。いくらか困ったようではあるものの、彼はまだ、笑っている。
「夜の花見か?風流だな」
なんでもないことのように言って、ユーリは隣まで歩を進めた。
先ほどまでのレイヴンと同じように上を見やり、感嘆の息を吐く。
「大丈夫だ」
唐突な言葉にユーリを見上げた。彼は舞い落ちる花びらを指先で追いかけながら、繰り返す。
「大丈夫だ。エステルも、下町の連中も」
「……青年」
「だから、俺たちはできることをしないと」
「青年!」
自分に言い聞かせているのだとはっきりわかり、怒鳴りつける。
「青年が一番無理してんじゃないの!馬鹿な真似やめてよ!」
「……レイヴン」
罵ってくれれば、どれほど楽だろう。
ヘラクレスで、自分の命は凛々の明星のものだと言った。
死んだはずの自分に、生きろと言った。
なのに、どうして。
「青年がそんな死んだような顔しないでよ……」
「悪い」
「楽になるなら、いくらでも俺のこと責めてよ。今の事態は俺のせいだって言ってよ。言われて当然のことをしたんだから」
溢れだした感情が、口をついて流れていく。
自責の念に苛まれている目の前の青年を助けたい。
自分が責められて楽になりたい。
お互い呪詛を吐き合えたのなら、どれだけ救われるだろう。
「そんな資格、俺にはねえよ」
自嘲気味に、彼はつぶやく。
「……嬉しかったんだ」
「え?」
「ヘラクレスに、あんたが現れた時。嬉しかったんだ」
予想しなかった答えに、ぽかんと口を開けたままユーリを見つめた。
バツが悪そうに笑いながら、ちらとレイヴンを見る。
「来ないって選択肢、あったはずだろ?ルブランに助けられたからって、また俺たちの前に姿を現わす必要なんかなかった。
どこか遠く、誰もあんたを、シュヴァーンを知らない街でも行って、全部忘れるって選択肢があったはずなんだよ」
「そんなの……」
考えもしなかった。
おそらく顔に出ていたのだろう、ふ、と笑ったユーリは続ける。
「責められることは覚悟して、それこそその場で斬られることだって覚悟して、それでも来てくれたじゃねえか」
「だって、それは」
「知ってるよ、皆。あんたがしんどかったこと、しでかしちまったことをどうにかしたがってるってことも。わかってる」
ひどく、優しい笑みだった。
普段の彼からは想像できないような、優しい笑みだ。
そうして、伸びてきた両手が、まるで何かを恐れるかのようにそうっと頬に置かれる。
ぴくりと体が跳ねるものの、振り払うでもなく、レイヴンは黙ってそれを受け入れた。
一瞬触れた唇が、離れていくのを見つめる。
「誰よりあんた自身があんたを責めてる。俺はもう、それも辞めていいと思う。そんぐらいには、あんたに惚れてる」
「ユ」
「背負いきれないなら、俺が半分引き受けるから」
名を呼ぼうとしたものの、震えた声は掠れて消えた。
目の前の表情は、自分よりもずっとずっと辛そうだったから。
「なんでよ……なんで、そんなこと言うの」
「言っただろ。あんたが好きなんだ」
なんで、と再度問おうとするも言葉にならない。
代わりに両の瞳からは、とめどなく涙が溢れ出た。
泣くな。止まれ。自分がしたことのツケで泣くなんて、最低だ。そう思いながらも、崩壊した涙腺は言うことを聞いてなどくれそうになかった。
「死んだと思った。でも帰ってきたとき、騙されてたとかエステルとか本気で一瞬どうでもよくなっちまってさ。ただ嬉しくて、そんで自己嫌悪」
「……まったく……馬鹿ねえ……」
「自分でもそう思うわ」
服の裾で涙を拭われながら、やっとほんの少し笑う。
「だからさ、一緒に行こうぜ。ちゃんと」
「……そうね」
瞳に宿るのは、決心の色。
やったことの取り消しはできないけれど、まだ取り返しはつくはずだからと。
こくりと頷いたレイヴンに、ユーリは静かに笑った。
後悔は進むためのもの