晴れ、ときどきユーリ
アリーヴェデルチ
「ねえ、ちょっと、青年…」
「なんだよ」
とさりと紫色の羽織が落ちる。
不安げに見上げてくる瞳をじっと見つめ返すと、ふいっと逸らされた。
若干胸の中がざわついて、その目尻に唇をつけると、耳が赤く染まる。
このおっさんはおっさんだというのに、いつまでもこういうことに慣れないらしい。
ふ、と笑って、座っていたベッドに押し倒す。
「ね、ねえ…ホントにすんの?」
「たりめーだろ」
躊躇いの欠片もなく、レイヴンのボタンに手をかけると、震えた手がそれをやんわりと掴んできた。
「往生際が悪いぜレイヴン」
「悪くもなるわよ…ヤローに押し倒されたことなんてないもの」
「え?」
「は?」
思わず手が止まり、まじまじと彼を見る。
そこでユーリは、自分が思っていたことが間違いだと気づくのだが、時すでに遅し。
「ちょっと青年?」
「あ、いや、悪い。てっきり」
「てっきり何よ」
じろりと睨んでくる相手から、今度はユーリが目を逸らす。それがまた、逆効果である。
「…青年。まさかとは思うけど…」
「いやまったくそんな。おっさんがそんなあれだと思ってたわけじゃないぜ」
「思ってたのね」
静かな怒り。同時に展開する、緑色の術式。
あーこれはあれだ、レイヴンお得意のあれ。風属性の、綺麗なやつ。
「アリーヴェデルチ!!」
頬から冷や汗を垂らしたまま術式を見ていたユーリは、吹っ飛ばされながらああやっぱりそれだった、とか考えていた。
不思議そうな顔をして、エステルが治癒術式を使う。
かくん、と首を傾げ、彼女はユーリを見た。
「もう大丈夫ですよ。でもなんでレイヴンに飛ばされたんです?」
「あー…えー…いや俺が悪い。たぶん」
宿から吹っ飛ばされて落っこちて、かなりのダメージを喰らったユーリは、カプワ・トリムの石畳に胡座をかいてうなだれる。
宿の屋根を突き抜けたせいで、修理代も個人的に出した。というか出さされた。
修理自体はカロルとパティがやってくれている。それを手伝いに行くかと腰をあげると、そちらからジュディスが歩いてくるのが見えた。
「もう終わるから大丈夫よ」
「そっか。飯でも奢るわ」
「まったくなのじゃ」
ついてきていたらしいパティが、その後ろからひょいと顔を覗かせる。
「まあ、カロルはいい売り込みができたって喜んでたから大丈夫じゃないかしら。
問題は」
「…わかってる」
さすが首領、たくましい。
そう思いながらジュディスの視線を追うと、海を眺められるベンチの一席で不機嫌全開のレイヴンがいた。
「普段穏やかな人が怒ると長引くわよ?」
「うむ。さっさと謝るがよいのじゃ」
「穏やか、ねえ…」
確かにレイヴンが怒ったところなどあまり見たことがない。
いつも飄々として笑っている彼の、その珍しい不機嫌さは自分のせいだ。
「ユーリ、顔が笑ってますよ?」
「かわいそうなおじさま」
エステルの言葉にはっとして口角を戻す。独占欲が表情に出ていたらしく、それに気づいたジュディスはくすくすと笑いながら言った。
ちらとレイヴンを見れば、彼もまたユーリを見たらしく目が合う。
一瞬驚いた顔をしたあと、思いっきり舌を出してきたりするので、思わず吹き出しそうになった。
「んじゃ、ちょっと行ってくるわ」
女性陣にそう言って、ユーリは足早にベンチへ近づく。
うげ、とあからさまに嫌な顔をし、立ち上がって逃げ出そうとした羽織を素早く掴んだ。
「何すんのよユーリの追い剥ぎ!」
「うるせえ逃げんなおっさん!」
「……バカっぽい……」
ドタドタと走る二人を見て、買い物帰りのリタがつぶやく。
やっとというかなんというか、年甲斐もなくカプワ・トリムの街中をひとしきり走り回ってから、ユーリは港の手前にある建物の脇にレイヴンを追い詰めることに成功した。
側には木がひとつ。木と建物の間にレイヴンを入れ、逃げられないように塞ぐ。
いろいろ諦めたのか、彼は唸りながらユーリを見上げた。
「俺が悪かったよ。ごめん」
「…………」
はあ、と呆れたため息をつく。
それから観念したように、レイヴンはぽつりぽつりと話し出した。
「別にね…何てことないのよ。昔、よく言われてたわ…」
口を挟むことなく、ユーリは黙って続きを待つ。
「シュヴァーンの時はアレクセイの大将。レイヴンの時はドンのじいさん。
どんな環境でもさ、ちょっと台頭すると口さがない話をばら撒く奴らがいるのよ。
でもまさか青年が、そーいうの信じるとは思わなかったわ」
「…本当、悪い」
「聞いたこと、あったの?」
少し首を傾け、上目遣いでちらとユーリを見ながら問うと、バツが悪そうな顔をして頬を掻いた。
苦笑いで、レイヴンは自身の足元を見つめる。
「あのね、青年。青年が信じてくれるかはわかんないけどさ…俺様、わりと…その、誰かとこういう関係になるってこと、ないのよ」
「…は?」
「女の子と経験がないとは言わないけど、ヤローとどうこうなんてそれこそ」
今度は最後まで言葉を待たず、抱き潰す勢いで彼を抱きしめた。
若干苦しそうにジタバタするも、大した時間もかからずおとなしくなる。
「レイヴン、本当に…ごめん」
「うん。…ユーリ」
「ん?」
「ありがと」
責められるどころか礼を言われ、ぽかんとしていると、おかしそうに腕の中の体が震えた。
「くっそ、かわいいなあんた」
「俺様おっさんよー?かわいくなんてないわよ」
ケラケラ笑いながら顔を上げる。
珍しい怒った顔もいいけど、やっぱり笑っているほうがいいな、とユーリはつぶやいた。
「青年は焦っててもかっこよくておっさんちょっと妬ける」
「何言ってんだか」
笑いながら下りてくる唇を待っていたレイヴンの、その表情が一瞬固まる。
不思議に思ったユーリが、その視線の先を追いかけると、窓辺でニコニコと微笑むカウフマンの姿が見えた。
そこで思い出す。隣の建物が、幸福の市場の本部であることを。
だがユーリはまったくもってどこ吹く風だ。
笑顔でカーテンを閉めたカウフマンに気づかれたと、顔を真っ赤にしたレイヴンの耳元で、
「レイヴン、かわいい」
「……あ」
先ほどと同じことを囁いた。
ぴくりとレイヴンの体が震えーーー
「アリーヴェデルチィイ!!!」
「バカっぽい。っていうかバカ」
「ワフ」
再びユーリが空を飛んだのをうっかり目撃したリタとラピードは同時につぶやいた。
吹っ飛ばされても幸せ