冷たい、神経質そう、近寄りがたい、気難しい


自分に対してそういった印象を周りの誰もが持っていることを、峯は知っている。

ブランディングしてきたイメージというのも勿論あるが

自己防衛の範囲だと自身を慰めることで保ってきた自我というものがある。


女なんて性欲処理の道具でしかないと

金があれば何もかも思いのままと

そんな風に思っていた。



堂島会長に出会い、人を信じるというものの価値が一変するまで

常にそのような人生を送ってきたと?



悲惨な幼少期を、孤独な青春を

同じような価値観で送ってきたと?


否。


誰も信じないだろうが、と峯は自嘲した。


俺だって人並みに恋をしたことはある、と。


疲れ切った頭で何を考えているんだと、峯は書類をまとめながらため息をついた。

こんな時背中がチリリと痛むのは

やはり刺青なんてものは、身体にとって“傷”と認識されるのだと考えたりしながら。



*********



何年前のことだろう。

もう思い出せない。


普通に会社員として、朝の混雑した山手線に乗っていた頃だった。

1Kの狭いマンションに住み、隣人はどこの国の人間だったか。

朝早くから出社し、帰宅後はベッドに倒れこんで眠るだけだった。

会社の同僚とはそこそこ付き合いがあるが、友人と呼べるものはいなかった。


車窓の移り行く景色を見ながら、あぁそろそろ寒くなってきたななんて考えていた。

東京の冬は骨まで凍えるように冷たい。

それでも汗ばむ満員電車の中で、輸送車のように会社へ揺られていた。


「あっ!すいません!!」


ビンッと何かにスーツを引っ張られ、物思いから覚まされる。

スーツの胸元に光る社章に絡みついた女の髪の毛。

謝ったのはその髪の持ち主だった。



黒く長い髪は頂上で高く結い上げられているものの

それでも彼女の肩まではある髪が何かの拍子に引っかかったのだろう。

慌てたように彼女は髪を引っ張るが、余計絡まってしまう。

狭い車内で必死に謝りながら、彼女はその美しい髪を引っ張っていた。


「・・・そんなに引っ張ったら、傷んでしまいますよ。」


それよりもスーツの生地が傷みはしないかと心配にはなったけれど

今時珍しい清潔感のある艶やかな黒髪が悲鳴を上げる様は見るに堪えなかった。



「今ほどきますから、少しじっとして・・・」


そう言いながら指を髪に絡めた、その時。

ジョキン、と音がして引っ張られていたスーツが身に添うように戻ってきた。


「あ、え・・・?」


事務用品であろうか、小型のハサミを片手に持った彼女は

こともあろうかその美しい髪を切ってしまったのだ。

長さにして20センチはあるだろうか。


すいませんでした、と謝り続ける彼女には何の非もないのに。

むしろ女性にとってはとても大切であろう髪を無残にも切ってしまったのに。

慌てた彼女の反応がおかしくて、峯は噴き出してしまった。


これが初恋だったと、誰が信じるだろうか。


彼女の名前はなまえといった。

毎朝同じ電車に乗っていたらしく

翌日からは顔を見るたびに挨拶くらいはするようになった。

1ヶ月が経つ頃には、目的の駅に着くまで会話をし

3ヶ月を過ぎるとたまに夕食を共にするようになった。


峯の中でなまえの存在はどんどん膨らんでいった。

仕事も以前に増して精力的にこなすようになり

遠巻きにされていた同僚からも声をかけられるようになった。

仕事以外で鳴らなかった携帯は、なまえと峯を繋ぐアイテムとなり

経済関係しか用がなかった朝のニュースの星占いを、少しだけ気にするようになった。


夕食の約束がある日は、やたら時計が遅く進むように感じたり

かといって食事が終わってしまうのは一瞬にも思えた。



なまえの顔は何時間でも見つめていられるほど美しかったし

二人を繋いだきっかけとなった髪は常に潤っていて、いい匂いがした。

露出の少ない白い肌は柔らかそうに照明を反射して

アルコールが入ると、ぽっと火照る桃色の頬はえも言われず愛らしかった。


コロコロと鈴を転がしたようななまえの笑い声に

峯もつられて笑顔になってしまうことも多かった。


肉体関係もない、手も握らない関係だけれど

これを恋と呼べないと、誰が言い切れるだろうか。



*********



「・・・私、結婚するんです。」


あれは、何曜日だったか。

水曜日かそこらだったと思う。


いつもの夕食の帰り道、なまえがふとつぶやいた。

季節は折しも6月。

ジューンブライドというやつだろうか。


「結婚・・・ですか?」


えぇ、と申し訳なさそうになまえが呟く。

お互いにいい歳だった。

今思えば馬鹿な一人よがりだが、

峯だってなまえのウェディングドレス姿を想像したことは一度ではない。

ただその隣に立っているのが、他の男だったことはなかったが。


「黙ってて、ごめんなさい。」


裏切りと呼べば、そうなのかも知れない。

だが峯もなまえも、お互いを何かしらの口頭契約で束縛したことはなかった。

恋人関係というにはあまりにも純粋で

高校生のような恋愛というにはあまりにも奥手過ぎた。

明白に恋人関係がない以上、なまえを責める権利も問い詰める権利も

落胆する権利さえ、峯は持たなかった。


「おめでとうございます。」


これが最後になるのだろう。

お互いの目を見ることもなく別れの挨拶をするというのは

ズルい大人のすることだなとなまえの頭頂部を見ながら思った。

あの日と同じように、一つに纏めた美しい黒髪が揺れていた。



*********



月日は流れ、なまえのことなどすっかり忘れていた。

いや、頭の片隅に追いやっていただけかもしれない。


リノリウムの床とエタノールの匂いが充満する薄暗い部屋で

峯は上半身裸のままベッドに俯せていた。

アンダーグラウンドの住人として、日の当たらない人生を歩んでいく。

そのケジメをつける為の施術。

背中に麒麟が生まれる日だ。


覚悟はできている。

ほの暗く感じる部屋の中で、後悔は何ひとつとしてなかった。

そっと彫師の指先が背中に触れ、一瞬体中の筋肉に緊張が走る。


「大きく深呼吸してください。」


彫師の指示通り、息を吐く中で鋭い痛みが背中に走る。

チリチリと、経験したことのない痛みが背中を貫いていく。



あぁ、と目を閉じて考えた。



なまえのウェディングドレス姿は美しかっただろうかと。


その背中は美しかっただろうかと。


なまえには生涯


こんな痛みは感じて欲しくない、と。



********



急に周囲の音が大きくなった気がして我に返った。

ざあざあと、大きなガラスの外は雨が降っている。

眼下に広がる神室町には、傘を持たない人々が右往左往と走り回っていた。


そうだ、大体雨が降る前だったな。

背中が傷むのは。


再度トントン、と書類を机でまとめてから、クリップで止め

クリアファイルに入れてから鍵のついている引き出しにしまう。


鞄を片手に、デスク上の電話機の直通ダイヤルを押し

車を回すよう指示する。



なまえもこの突然の雨に降られているだろうか

慌ただしく洗濯物を取り込んだりしているのだろうか



車が回されるまでの数分間、タバコをくゆらせながら

少しだけ初恋について思いを馳せる峯のことを

誰も知らない。





prev next









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -