い夜が来て




残業することを良しとしていた若い時代はとっくに過ぎた。

少なくとも週に2日は早く退社して、習い事に勤しんでいたことももう忘れた。

今は一刻も早く家に帰りたい。



「ただいま辰雄!!」



マンションの扉を開けるなり大声で叫ぶと、リビングで人が動く気配がした。

良かった、今日は居る。

いつからかなまえの家に転がり込んできた品田が、仕事の都合なのかたまにふらりと出かけたまま明け方まで帰って来ない時などは

しぃんと静かで暗い部屋になまえの叫びがこだますることになってしまう。



「おかえりー。電話くれれば、迎えに行ったのに。」



いつも通りのティーシャツとジーンズで品田はソファに座っていた。

テレビではニュースを流していたので、きっとプロ野球中継を付けっ放しにしていたのだろう。



「ううん、近いし。大丈夫。」



寝室でスーツから部屋着に着替えながら返事をする。

肌寒くなってきた昨今では、厚手のパーカーがとても心地いい。

かなり大き目のパーカーとスウェットパンツに着替えて、髪を頭の上でひとつにまとめる。

寒い寒いと言いながらリビングに戻ると、品田がインスタントコーヒーを淹れてくれた。



「晩御飯は食べた?」

「うん、食べて来た。」



太るから、となまえが夕食を摂らなくなって数年が経つ。

お陰でキッチンには最小限の調理器具しかなくなり、掃除が楽になった。

マグカップから伝わる熱がじんわりと悴んだ指先を溶かしてくれる。

すっかり指定席となった、ソファに座る品田の腕の中にうずくまると

なまえは湯気の立つインスタントコーヒーをひとくち飲んだ。



「最近遅いね。忙しいの?」



慣れた品田の匂いは、香水なんかつけていくせに妙に甘ったるい匂いがした。

使いこまれたタオルみたいな体臭はとても安心した。



「んー…忙しいっちゃ忙しいかな…」



泊まりこむ程ではないけど、連日残業を余儀なくされる程度には忙しい。

昼食を座って食べる時間はあるけれど、出力した印刷物を取りに行くのが面倒な程には暇じゃない。

溜息をつきそうになるのを、熱いコーヒーの表面を冷ます吐息に変えてごまかす。

そっかと呟く品田がなまえの頬に軽くキスをした。



「おいで。」



広い腕の中で姿勢を変える。

あまり姿勢が良くないのでそんなに大柄には見えないけれど、近くで見るとやっぱり大きい品田の胸に背中を預けて

組んだ足の上にちょこんと乗っかる。

まるで自分がとても小さな女の子になった気分だ。



「今日は外回りだったの?」



なまえに覆いかぶさるようにして足をマッサージする品田が問う。

脇から通された大きな手が、なまえの小さな足を的確に刺激して

とてもイイ所に当たる。



「うん。なんでわかるの?」



ぐりぐりと親指で土踏まずを押されたり、アキレス腱を上下にさすられたり。

今でもまだ痛いけれど、脹脛の筋肉を揉まれた時に悲鳴を上げなくなった。

初めてされた時は涙目になって拒否したものだった。



「現役の時は、毎日やってたからね。こういうの。」




さくさくと左足、右足を終えた品田の手が背中へ移っていく。

肩甲骨を解されながら、何て返事をすべきかわからなくて

あぁ…と適当な相槌を打ったきりになってしまった。

そのまま首や肩へ移っていくのを、されるがままになっていた。

テレビではもうこの番組でしか見ることのなくなったアナウンサーが

政府の新しい方針を憂いていた。

この人は誰が何をしようと、いつも否定的な意見しか口にしない。

そんなくだらないことを考えていると、サイドテーブルに置いた携帯が振動した。



「ごめん、電話。」

「ん。」



着信は会社からだった。

出てみると遅くにごめんなさいと、3年目の部下が仕事の指示を仰いできた。

新人の教育係もしながら普段の業務も変わらずこなす彼に、最近はなまえも見方を変えてきている。

新しいプロジェクトの誘いに、一層やる気を出す彼の隣のゴミ箱には

最近ちらほらと栄養ドリンクの空き瓶が見られている。



「―--わかった、じゃあ朝一で確認するから。それと、あなたもそろそろ帰りなさいね。」



締め切りは週末だった資料を完成させた報告を受け、取引先に直行するはずだった明日の予定を変更する。

少しはゆっくりできるかと思ったのにな、と内心思ったけれど

頑張っている可愛い部下の為ならと思い直した。

電話を切ると、品田がなまえを受け入れる体勢のままで見上げていた。



「…にゃぁぁ」



電話口でも仕事モードになるとちょっと疲れる。

意味もなく奇声を上げたくなって、品田の胸に突進した。

結構勢い良く突っ込んだのに、品田は少しも倒れなかった。



「はいはい、お疲れ。」

「疲れたよぅ、辰雄くん、私疲れたよぅ。」



随分着こまれて柔らかくなったティーシャツに頬を擦りつけて

べそべそと愚痴を言うなまえの頭を品田の大きな手がくしゃくしゃと撫でる。

とても大きくて、暖かい手だと思った。



「仕事モードのなまえちゃんも可愛いよ。」

「嘘。アホ。」

「酷いなぁ、褒めてるのに。」



まるで大きなベッドのような品田の腕の中でもぞもぞと動き回る。

不貞腐れた表情のまま品田の頬にキスをすると

くすぐったいと笑った。



「良いと思うよ。仕事モードのなまえちゃんもかっこよくて好きだけど。」



上体を起こして目を見つめる。

なまえよりずっと年上なはずなのに、少年みたいな目にきゅんとする。

その癖思いっきり甘えても怒らないし、でも他の男みたいに上から目線じゃない。

好きだな、と改めて思った。



「あ、その顔可愛い。」



至近距離で褒められるのが不慣れで恥ずかしくて、乱暴に触れたキスは

ほとんど頭突きに近かったかも知れない。

苦笑いをする品田の顔を直視したくなくて、また胸に小さくうずくまる。



「なんか、グッとくる。」



馬鹿、と言いかけたけどそれもあんまり可愛くないので

ありがとうと言っておいた。

マッサージとは違う感覚になった指が背中を滑るのを感じて

あぁ、やっぱり男の人の手なんだなと知る。



ベイビー、ただ日になる







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