Les cinq sentiments




仕事から帰ってくると、リビングが明るかった。

玄関には綺麗に磨かれた革靴が置いてあって、静かで物音はしないながらも

誰かが居る気配がそこにあった。



「ただいま。」



廊下からリビングへ繋がる扉を開けて声をかける。

にこりと笑いかけることも、こちらへ目をやることもせず峯があぁ、だとか返した。



「遅かったな。」

「そうかな。最近はいつもこうよ。」



コートとジャケットをクローゼットに仕舞いながら会話を交わす。

ダイニングテーブルと呼ぶには小さすぎる、一人暮らし用の高いスツールで

峯はウィスキーグラスを傍に置いて本を読んでいた。

出会ったばかりの数年前は、未開封のビニールで栓がされたミネラルウォーターしか飲まなかった癖に

カウンターに並べてあるウィスキーを勝手に飲む程には信頼してくれているのが嬉しい。

尤も、峯と出会うまでワイン派だったなまえの部屋で細々と増殖していくそれらは

彼が来ない限り消費されなかったりする。



「珍しいね。」



大概飲み物しか入っていない冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して向かいへ腰掛けながら

ちょいちょい、となまえが自分の目元を指さす。

やっと顔を上げてこちらを向いた恋人は、いつもより眉間に皺を寄せているようだった。



「老眼?」



揶揄いながら声をかけると、溜息とも鼻で笑うともつかない息を吐きながら

まるでくだらないことかのようにまた本に向き直った。



「目が悪いのは、知っているだろう。」



細いフレームを指で持ち上げる仕草が、ごく自然で

人生のかなり長い時間をこの小さなレンズと過ごしていることを伺わせる。

普段コンタクトをしていることは知って居たけれど

眼鏡をかけている姿を見るのは初めてだ。

なまえの部屋へ泊った日もいつの間にかコンタクトを外しているし

明け方に眼鏡をかけていなくても、よく見えないような素振りは見せたことが無い。

眉間に皺が寄っているのはデフォルトだし、視力が低いことを改めて気づかされた。



「どれくらい悪いんだっけ?」



世間話のつもりで軽く訊いただけだったのに

峯はわざわざ本に栞を挟むとそれを閉じ、ギロリとなまえを睨んだ。

恋人とはいえ本職の睨みは流石だなと思うが、眼鏡のレンズから外しての視線に

ただの凝視だと気づいた。



「…なまえの顔は、よく見えない。」



着ている服の色や髪形は何となく見えるものの、表情やアクセサリーの造形などはわからないと言う。

良かった。

厳しそうな睨み顔を、少し可愛いと思ってしまう緩んだ口元を見られなくて。



「ふぅん。どこら辺なら見えるの?」



これもただの世間話のつもりだった。

誘っているわけではなかったのに、閉じた本をテーブルに置いて近づいてくる。

細身のスーツで小柄に見える峯は、近くに来るとやはり男性らしい体格をしていた。



「…この辺で、表情がわかる。」



30cm程離れたところでぴたっと止まると、しっかりと顔を見つめられながらそう言われる。

一生懸命対象を捉えようと、瞳が小さく動くのが見える。



「この辺で目の色がわかる。」



更に10cm近づいたところで呟く。

どんどん近づく声とウィスキーの香りに少し緊張する。



「この辺で、匂いがわかる。」



なまえが腰掛けたスツールの肘掛に手を置いて、どんどん距離が短くなる。

片手を後頭部に回され、先ほど眼鏡を上げた指で髪を梳かれる。

やたら煩い心臓の音や荒くなってしまう呼吸が聞こえてしまいそうで焦る。

視覚に頼ったのはきっかけだけで、触覚や嗅覚をフルに使って視られている。

どの程度見えているのか些か不明だが、もうとても焦点が合わない距離になっても峯は目を閉じない。

根負けしてなまえは目を閉じ、残りの感覚が共有できるのを待った。









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