brontolare
仕事が終わったので呑みに行こうと誘いの電話を受けた20時過ぎ。
こちらは終わっていないと伝えた会話を、まるで聞こえていないかのように受け流したなまえは
やっぱりこちらの食べたいものなどひとつも訊かずに、くたびれた中年男性ばかりの小さな小料理屋へ真直ぐ向かって行った。
良い酒が入っているよと勧める店主に見せられたラベルを一瞥してちょっと悩むと
相変わらず彼女は人の意見を無視してビールを頼んだ。
「良いの、彼氏は。」
店主が勧めた日本酒は秋山が頼んだ。
熱燗が良いというので、熱燗と旬な魚の刺身を並べたカウンターの隣の席で
なまえはいつものビールと炙り、彼女の定番だった。
「良いのよ、別に。」
比較的長いこと交際している恋人がいる割に、なまえはしょっちゅう秋山を呑みに誘った。
脈のない女性と呑みに行くのは時間の無駄なのであまり気乗りはしないけれど
なまえは美味い店を知っている。
「また喧嘩したの?」
「喧嘩って程のもんじゃないわ。」
ビールを呷る、ジョッキはものの数分で残り半分以下になっている。
とろとろと白い泡の後が重力へ従事する様を、秋山は見ていた。
「なんか、色々もう嫌んなっちゃってさ。」
「また同じこと言ってる。」
なまえが秋山を呼び出す時は大概が彼の話で
喧嘩しただのこんなとこがムカつくだの、生産性のない愚痴ばかりを垂れ流す。
それでも秋山が黙って相槌を打ち続けるのは、なまえの少しアルコールの入った横顔が美しい所為と
店主お勧めの日本酒が美味しかった所為だ。
「別れようかなぁって、そろそろ。」
多忙だというなまえの彼氏と彼女の交際期間より、秋山との付き合いは短いけれど
たぶん会っている時間は秋山となまえの方がずっと長いはずだ。
何しろ1ヶ月の内半分の金曜日は、こうして呼び出されては呑みに繰り出している。
そうしてその大凡50%の割合で、同じ台詞をなまえは呟く。
「じゃあ、別れちゃえば。」
「うーん…」
歯切れの悪い返事をビールで流し込むのも彼女の定番だ。
髪をかけた耳がほんのり赤くなっている。
疲れたのか、首をぐるりと回して関節を鳴らす癖は全く若いOLらしからぬ動作だった。
それでも、甘いカクテルを一口呑んで『酔っちゃった』なんてしな垂れかかって来る女ばかり見ていると
或る意味好感が持てるのは、惚れた欲目なのだろうか。
「何て言って欲しいの。」
なまえが貶す男を見たことはないが、別れられない理由があるわけでもあるまい。
秋山が熱燗を呷って溜息交じりに問うと、店員がビールを置いていった。
ありがとうとジョッキを受け取ったなまえはカウンターに置かないまま
喉を鳴らしてビールを流しこむと、さも旨そうに息継ぎをした。
「物分かりの悪い男は嫌われるわよ。」
先程までの仕事の疲れはどこへやら、アルコールを摂取したなまえの顔に生気が戻る。
やっとジョッキをカウンターへ置いたかと思うと、頬杖をついてやたらにやけたなまえが
暗に含んだような顔で秋山を見上げた。
「察しが良けりゃ、もっと器用に生きてるよ。」
図りかねる秋山が煙草に手を伸ばすと、隙をついてなまえが刺身を一枚奪い取った。
醤油もつけずに口に運んで美味しいと顔を綻ばせる、彼女は本当に美味しそうに食べる。
「女が恋人の愚痴を零す時はね。」
改めてビールを口に含んだなまえがジョッキを唇で弄びながら呟く。
こちらを見もせずに遠くを見る横顔の目元は、楽しそうでも意地悪そうでもあった。
「そんな奴捨てて俺にしろよって、言って欲しいのよ。」
早くもほとんど空になったジョッキをカウンターへ置く。
次の手を伺うようななまえの目の色に、意外そうに肩を竦めた秋山は
短くなった煙草をゆっくりと灰皿に押し付けた。
まゝよまゝよと宵の口
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