loup












夜景の綺麗な高層階のバーなんかより、地下の窓ひとつない地味なバーを選ぶのは

きっと瀟洒なバーには幸せそうなカップルがたくさん居るに違いないと思ったからだ。

暖かくなってきたはずなのに、骨の髄から冷える夜はとても一人で居られない。

夜の隙間を縫うようにして辿りついたバーは、やっぱり閑散としていた。

しばらくマスターと交わした会話もぽつりぽつりと途絶え始めて

ひっきりなしに吸っていた煙草をもう一本点けようかとボックスを探ると、中身は空だった。



「あの…」



なまえが指を伸ばしてマスターを呼び止めようとすると

カウンターの端の棚からなまえの銘柄の煙草を滑らせて寄越した。

煙草を切らしてしまうのは初めてではない、煙草だけ前払いのシステムは知っている。

バッグの中の小銭入れを探ろうと身体を捩ると、左の耳に小銭が置かれる音が聞こえた。



「取っとき。」



なまえが顔を上げると、いかにもガラの悪そうな

見るからに堅気ではない男が100円玉をいくつか、ぱらぱらとカウンターに置いた。

マスターは何も言わず受け取って、おつりは渡さなかった。



「…どうも。」



ナンパかしら、と訝しむなまえの隣のスツールに、男は頷きながら腰掛けた。

薄暗い店の中なのにサングラスをかけたままで、ダブルのスーツは高級そうだった。

男がなまえの隣に移動すると、マスターはまた無言で

今まで彼が呑んでいたウィスキーのグラスを移動させた。



「よう呑むな、ジブン。」



なまえが入店した時は居なかったこの男は、なまえ同様一人で訪れて

癖の強いウィスキーのロックをちびちびと舐めていた。

あんまり似合うその様に、なまえも思わずウィスキーを頼みたくなったけれど

結局いつものワインを続けてオーダーしていた。



「なんや、あったんか。」



なまえが目線をワイングラスにやったまま、うんともすんとも答えないのを

彼は先を促すように問いかけた。

低いしゃがれた声が左耳の鼓膜を揺らすのは、BGMのピアノジャズよりもずっと

官能的で心地よかった。



「何も、ないわ。」



なまえの手が今し方プレゼントされたばかりの煙草に伸びようとすると

大袈裟な指輪をはめた男の指がそれを奪って、スムーズに1本取りだした。

綺麗に20本並んだボックスの隙間から1本飛び出させて、なまえの方を向けて安置する。

なまえが見つめながらその1本を取り出して口に咥えると、男は静かにライターを点けた。



「男か。」



彼はなまえが点火したのを見届けると、キンと高い音を立ててZIPPOを閉じた。

シルバーで傷だらけの、長年愛用しているなまえのZIPPOと違って

キチンと手入れされた、あまり傷のない金色のZIPPOはとても派手で

彼に良く似合っていた。



「そうよ。」



深く吸いこんで吐き出しながら、紫煙と共になまえが呟いた。

長年付き合った男と別れた先週末。

仕事に没頭しながら気づいた、あの別れ方は別れたというより

逃げられたという方が合っている。

そんな悲しい、悲しい別れだった。



「阿呆な男もおるもんやな。」



薄っぺらい慰めの言葉を口にして、彼はウィスキーを少し舐めた。

そうして、マスターが移動させていた煙草を一本ソフトケースから取り出すと

先程の派手なZIPPOで火を点けた。

サングラスに明かりが反射する様が、やたら厭らしいと感じる。



「そうかしら。」



別れの理由や経緯を、誰一人話したりはしなかった。

勝ち負けで恋愛をしていた時期はとうに過ぎて、今なまえの心に残るのは

ちょっとした喪失感と、訳の分からない遣る瀬無さだけだ。



「ところでお兄さん、ナンパなら気乗りしないの。」



お礼を兼ねて、指で挟んだ煙草をちらりと掲げてみる。

男は煙草を口に挟んだまま、鼻を鳴らして笑った。



「そら、残念や。」



心の底から嘘だと分かる口調でぼやきながら、男は胸ポケットから名刺を取り出した。

指先でトンと静かにカウンターに置いて、なまえの左手のすぐ隣にスライドさせる。

堅気ではないのだと、改めて知った。



「悪い人なのね。」



睫を伏せたままなまえが呟くと、渡瀬は肩を揺らして笑った。

正義のヒーローには見えんやろうと自嘲したような笑いを漏らした。

名刺の隣で休んでいた左手を、ゆっくり起こして頬杖をつく。

渡瀬の顔を見上げると、その飄々とした口調とは裏腹に目は真剣だった。

そこまできて、初めてなまえは気づいたのだ。

渡瀬が最初からなまえをターゲットに、この店に入ったことに。



「お高いのかしら。」

「どこまでやるかによるわな。」



悲しい別れを嘆きながら暮らしていくには、少しばかりなまえは淑女ではなかった。

元彼の棄てた女は金ならある独身女性。

悲劇のヒロインよりは、復讐を目論む女帝の方が似合って居ると自分でも思う。

別れましょう、ハイそうですか。という簡単な別れ方だったわけではないことを

渡瀬は知っているのだ。



「少し考えさせて。」



たぶん、首を縦に振れば明日の朝には元彼は大阪湾に沈んでいる。

意外と几帳面だった彼のワンルームマンションも粛々と片付けられて

なまえは涙に暮れながら彼の葬式に参加して、来週の今頃には何事もなかったかのように

ここでワインを呑んでいるのだろう。

しれっとワイングラスを傾けながら、唯一の趣味と言って良い通帳の貯金は

0がひとつ減っているはずだ。

それは確かに魅力的なことだけれど、そこまで彼の事を嫌いにもなり切れない情けない自分も居て

なまえは返事を濁し、煙草を灰皿に押し付けた。



「わかった。」



渡瀬は名刺をカウンターにおいたまま、ウィスキーをがぶりと飲み干した。

そうしてなまえの目をサングラス越しに一瞬ぐっと見つめると

何も言わずスツールから立ちあがって、出口へ向かっていった。



「ねぇ、待って。」



そう広くもない場末のバー、なまえの呼び止める声は

聞こえて欲しくないと願ったのに、渡瀬の足を止めるに十分だった。



「一人にしないで。」



そっと自分の肩を抱いて、渡瀬の背中に投げかける。

ゆっくりと革靴の先が動いて、彼の指先がなまえを呼んだ。









こんな夜はても






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