miniscence
















ここ数日は碌に睡眠を取れていなかったものだから、やっと自分の事務所で落ち着いて

デスクの大きな椅子にゆったりと腰掛けると睡魔が襲ってきて堪らない。

眼が疲れているのかと瞼を閉じると、いつの間にか夢を見ていた。

懐かしい夢だった。



「珈琲を淹れた所なの。」



そう言ってドリッパーを片手に持ったなまえはいつも笑顔だった。

今にして思えばきっとカフェイン中毒なんて名前のつく程珈琲が好きだった。

豆にこだわりがある訳でもなく、インスタントでも好んで飲んでいた。

それでもやっぱり珈琲屋で挽いて貰ったばかりの豆を持っていくと

香りが違うねなんて言いながら、やっぱり笑顔で飲んでいた。



「一杯、どう。」



湯気の立ったドリッパーを傾けながら、彼女の左手には自分用のマグカップが握られている。

白い陶器に、桃色の柄のついたマグカップはいつもなまえの傍にあった。



「貰おうか。」



峯は答えながら、あぁこれは夢なんだと自覚する。

明晰夢というやつだろう、疲れている時なんかにたまに見る。

大概が嫌な記憶の夢ばかりなのに、今回ばかりは穏やかな夢を見せる脳は

休息を欲していたのだろうか。

なまえは明るい声で返事をしながら、食器棚から峯のマグカップを取り出す。

揃いではないマグカップは白い陶器で、こちらには薄い緑の柄がついていた。

懐かしい。



「どう、いいところ?」



珈琲を入れたマグカップをふたつ、両手に持ちながら歩いてくる。

彼女の部屋のリビングの、テレビの前には大きな二人掛けのソファが据えられていて

右側が峯の指定席だった。

テレビに目をやって、手元を見ないものだから手探りでテーブルにマグカップを置くのを

黙って受け取ってやるのは峯の役目だった。



「どうだか。守備が固いからな。」



サッカーの試合の行く末を見つめたまま、なまえはふぅんと返事をして

ソファに座りながら珈琲に口をつけた。

別にサッカーなんて興味もない、それでもなまえが観たいと強請るものだから

久々に会えたというのに、昼間から遠い国で戦う日本代表を見守っている。

オフサイドをやっと覚えたばかりの癖に、なまえは爛々と目を輝かせて

時折、おぉ、なんて呟きながらテレビを見つめていた。



「零すぞ。」

「あ、うん。」



膝に握った手の中のマグカップをテーブルに置くよう促してやる。

少し骨張った皮膚の薄い手の甲はいつも冷たかった。

こんなことまで覚えている、脳の記憶力というものは素晴らしい。



「ねぇ、勝つかなぁ。今日勝ったら、ベスト…なんだっけ。」

「16だろ。」



そうそう、それそれ。と笑ったなまえの髪はいつも同じシャンプーの匂いがした。

思えば彼女の部屋はいつも彼女の匂いと、珈琲の匂いがしていた。

見ていた映画が中弛みしてきたから、外食から帰宅したから、仕事が煮詰まったから。

セックスが終わったから、目が醒めたから、

夕食のシチューを、あとはとろ火で煮込むだけだから。

何かにつけてなまえはいつも珈琲を淹れていた。



「ねぇねぇ、あのさ…」

「なんだ。」



なまえは画面から目を離さないまま、峯に向かってなにかを問いかける。

いつも着ていた柔らかい素材のシャツのボタンの硬さですら覚えているというのに

彼女が峯を、どう呼んでいたかを思い出せない。

珈琲を淹れた所なのと口にする前に必ず、名前を呼んでいたのに。



「…会長。」



呼ばれて瞼を開くと、いつもと変わりない事務所だった。

片瀬が少し申し訳なさそうにデスクの向こう側に立っていた。



「どうした。」

「お電話が繋がってますが…、どうしますか。」



対応を問う片瀬の言葉を聞きながら首を鳴らし、ジェスチャーで出ると伝えた。

ひとつ小さく頷いて会長室を辞そうとする片瀬の背中を呼び止める。



「珈琲を淹れてくれないか。」

「珈琲ですか。」



半身振り返った片瀬が解りましたと答えながら、ホットなのかアイスなのかを問う。

ミルクは、砂糖は、どうしますかと続ける口の動きを見ながら

やっぱりなまえは自分をどう呼んでいたか、思い出せなかった。



「いや、良い。」



手の甲でかぶりを振って、発言を撤回する。

片瀬は整った顔を不思議そうに傾けて、はぁと困ったような返事をした。



「忘れてくれないか。」



夢から引き戻された身体に、徐々に力が戻っていって

いつもの仕事態勢に切り替わっていく。

デスクの上の受話器に手を伸ばしながら口にした命令は、片瀬にではなく

疲れた脳味噌に下せるものなら良いと、叶わない戯言を溜息に換えた。










君の淹れた珈琲の香りをもまだ





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