NOCTURNE
野球が好きだと、以前言っていた。
なんとなく贔屓のチームを訊いたりしたけれど、特に思い入れはないんだそうだ。
ただ、野球というスポーツが好きなんだと彼は寂しそうに笑った後
太陽の下で走るなんてことは、もう一生ないんだろうなと呟いた。
日付が変わる前後に、なんとなく寝付けずにベッドから降りる。
リビングで水を一杯飲むと目が冴えてしまって、そのままテレビをつけた。
報道番組がいくつかの物騒なニュースを報じたものの数分後には
明るい声で短いスカートの女子アナが今日の野球の結果を報じている。
巨人は、勝ったらしい。
テレビを消すと、まだ自分のぬくもりの残るベッドに思いっきりもぐりこんだ。
充電器に繋いでいた携帯を手探りで引っ張ってロックを外すと、ブルーライトで目がきゅんと痛くなる。
しかめっ面をしながら、着信履歴のほとんどを埋め尽くす恋人の番号を探した。
コールの音を耳に当てて枕に頬をうずめると、ほんの少しだけ大吾のにおいがした。
『どうした、こんな時間に。』
電話の向こうは、静かだった。
昼も夜もないような仕事の彼は、こんな時間であればきっと管轄の夜の店なんかにいるんじゃないかと思ったけれど
どうやら一人でいるような静寂に安堵する。
「巨人が、勝ったらしいわ。」
今しがた仕入れたばかりの、それしか知らない情報を呟く。
何番打者が、何回の表でヒットを打ったのかとか
相手のチームがどこだったのかなんて、一切知らない。
『巨人が好きだったのか。』
電話の向こうで大吾が笑う。
先週会ったばかりなのに、その唇がどんな柔らかさだったのかもう朧げで
寂しくなってまた枕に半分顔を埋めた。
「違う。」
会えない時もちゃんと思い出せるように、しっかり覚えていようと
このベッドで何度も彼の背中や頬を触ったのに。
見つめると照れたように細められる眼も、なまえと名前を呼ぶ声が喉を通る息の温度も
シャワーを浴びた後の髪の感触も、なまえの腰を滑る指先の感触も
100%は、思い出せない。
「大吾が好きなの。」
会いに来てと素直に言えたらどれだけ可愛らしいことだろう。
一社会人として、一人の大人として、大人の恋人としての秩序を守りながら
精一杯の甘えを口にする。
なんだそれ、と電話の向こうで苦笑いが聞こえた。
『週末なら、少しは時間作れる。』
「無理しなくて良いよ。」
元々自分ひとりの枕だったのに、もう右側を半分開けておくのが癖になってしまった。
大吾がここへ寝転がっていた夜を思い出しながら、彼の声を聞く。
悲しいことに、困らせてしまった時の申し訳なさそうな笑顔だけは鮮明に思い出せた。
『多少の無理はさせろよ。』
無理をしていないと言えば見抜いてしまうなまえの優しさを、ずるさで大吾は上回る。
たった30分会うために、彼は東京の端っこから端っこまでを車でやって来る。
たぶん今、週末は忙しいのとなまえが嘘を吐いたって
きっと大吾は眠るまで電話に付き合ってくれる。
「明日も、巨人は勝つかしら。」
大吾の低い声を聞いていると、どこかへ旅に出ていたはずの睡魔が戻ってきた。
うつらうつらと船を漕ぐ、カーテンの隙間から往来の車の明かりが天井を舐める。
『勝ったら、教えてくれ。』
それだけ伝えて、優しく電話は切れた。
なまえも携帯をベッドサイドに戻して、もう一度枕の中で大きく息を吸い込んだ。
選手の名前を一人も知らないけれど、きっと明日も勝ってくれるように祈りながら
次の口実を探しているうちに夢の中に落ちていく。
完璧なあなたを思い出せるように
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