憂鬱のタィカ
















譲れなかったのは広い窓とタイル張りの床。

それだけでも日本のテナントビルというものはなかなか目ぼしい物件がなくて

やっと見つけた繁華街の広いオフィスを、正直一人では持て余していた。

社員を持てと進言されたこともあったけれど、いろいろ考えた結果やっぱり持たなかった。

他人の人生を負う覚悟なんて、自分にはないと知ったから。

色気のないオフィスに、PCのおいてある大きなビジネスデスクがひとつ。

窓辺にコーヒーメーカーと、使い捨てのカップを捨てるゴミ箱。

壁の棚には一面にクライアントの履歴を収納した分厚いファイルが連なっていて

受付のないオフィスには硝子のパーテーションの向こうに、ゆったりとした黒い革のソファを置いた。

その上で真島はいつも、つまらなさそうに踏ん反り返っている。



「なぁ、なまえちゃん、まだ終わらへんの。」

「終わりません。」



誰かさんの所為で、と口の中だけで呟いて、なまえは相変わらずPCに見入っている。

東城会がクライアントになってから、会長と相談の上一般のクライアントはすべて切った。

お蔭さまで仕事量は2割程減ったけれど、実入りは200%以上伸びている。

甘い汁とはこういうことを指すのだろう。



「とっとと終わらせぇや。ほんで飯行こ。腹減ったわ。」

「前のビルの牛丼屋、結構美味しいですよ。」



なまえの事務所の入っている雑居ビルの向かいの、同じく雑居ビルの1Fには

チェーンの牛丼屋が入っている。

ランチミーティングのない日はたまに世話になるが、一口食べるともう十分だと思うのに

次の週には食べたくなってしまう、不思議なジャンクフードの味がする。



「もっとええもん食いや。っつーか晩飯が牛丼て。」



色気がない等とぼやいている真島の所為で、静かにかけているBGMは全く聞こえない。

キーボードを叩く音だけではあまり集中できないので、朝の気分で適当に選んだBGM。

今日は穏やかなギターの音がしていたはずだ。



「お腹、お空きなんでしょう。」



真島が来たときには、菓子を出さない。

なぜなら来客用の菓子をすべて貪り尽されてしまうから。

彼はこうして、特段用もないのに夕方頃ふらりとこの事務所にやってきては

一杯の珈琲を強請り、なまえに飯に付き合えとぐだぐだ言いながらいつしかソファで眠ってしまう。

先ほど昼寝から覚めたばかりの彼は、眠った時と同じ体勢のままのなまえを見て

仕事し過ぎるとアホになるで、と開口一番呟いた。



「なぁ、ほんま、そろそろ飯時やで。」

「行かれたら良いじゃないですか。」



冷たくなまえが言い放つと、真島はぶすっとした顔でパーテーションをすり抜けて

なまえのビジネスデスクの上に腰かけた。

搬入時に若い男の子2人が随分苦労していただけあって、デスクはかなり頑丈らしく

PCの画面は微塵も揺れなかった。



「なまえちゃん、ジブン、わかってやってるやろ。」

「さっぱり。」



キーボードの上から手を離さず、左側に置いたコピー用紙を眺めながら答える。

こんなただの仕事漬けの女の何が良いのか、真島は初めて挨拶をした時から

あの手この手でなまえにちょっかいをかけてくる。

初回こそ曖昧に受け流していたけれど、2度目に会った時などは初っ端からホテル行こうだなんて言い始めて

つい、こんなことあってはならないのだけれど、

大口顧客の極道幹部に向かって、馬鹿じゃないの、と言い放ってしまった。

それ以来彼は、頻繁にこの事務所にやってきてはなまえを何とか口説こうと躍起になっている。

たぶん、マゾヒストなのだろう。



「ええやん、どうせ暇なんやろ、今日。」

「予定がありますから。」

「なんやねん、予定って。」

「守秘義務がありますから。」



淡々と返すなまえの前で、真島がデスクに座ったままふかしていた煙草を

なまえの右側にある灰皿に擦り付けて鎮火した。

部下を持たない理由のひとつに、たぶん全面喫煙にしたいという時代に反した希望もあるのかも知れない。



「かったい女やなぁ。」



真島が呆れながら足を組み替えている。

なまえはちらりとその膝を見ながら、長い脚だと思った。

そしてその脚で自分の膝を開かれたらどれほど羞恥するのだろうかと、一瞬のうちに考えながら

気づかれないように手元のコピー用紙に目線をずらした。



「他にいくらでもいらっしゃるでしょ、付き合ってくれる女性くらい。」



右手をマウスの上に移して、なまえが左手で頬杖をついて呟く。

少し暗い画面にうっすらと自分の影が映っているその向こうで、真島のジャケットが動いた。



「なんや、嫉妬か。」



嬉しそうな声色と、衣擦れの音が短く響いて一体今どんな顔をしているのか

見なくてもおおよその予想がついた。

きっとにんまりと笑って、人を馬鹿にしたような、それでいて小学生の男の子のような

何か楽しくて仕方ないような顔をしているに違いない。

改めて馬鹿なのかと言い返そうとすると、デスクの上で充電器に繋がれていたなまえの携帯が振動した。



「はい、お世話になっております。−…えぇ、そうですね、今夜でしたら空いてますわ。」



別の組の、真島組よりずっと小さい三次団体からの呼び出しだった。

さすがに会長と面識のある外部の人間とあって、きちんと教育された極道は意外と話のできる人間だった。

ちょっと困りごとがあるので来てほしい、という要望を簡単に聞きながら

手帳に打合せ時刻とざっくりとしたメモだけを書き込んで、電話を切ると同時に閉じると

真島の恨みがましい目線が痛いほど突き刺さった。



「嘘はアカンで、嘘は。」

「結果真実になっただけの話じゃないですか。」



PCを離れて壁の棚の前に立つと、そのあいうえお順に並んだ背表紙の中から

件の組のファイルを探す。

ずっしりとした色気のないプラスチックの感触が指に触れると、背後で真島の革靴の音が数歩聞こえた。



「別にここでもええねんで。結果、一緒やからな。」



なまえの背後から腕が伸びて、棚の間に閉じ込められた。

少しざらついた声と共に、真島の煙草の匂いがした。



「もう音を上げるんですか。」

「ごちゃごちゃ煩い女やな。」



振り返ると思いの他真島の顔は近く、心臓がぴくりと跳ねた。

動揺を悟られまいとじっと睨み返すと、真島の隻眼はぴったりなまえの眼に焦点を当てていて

そろそろ小手先の躱し文句が通用しなくなってきていると知った。



「寝ませんし、デートもしませんよ。そういう商売じゃないんで。」



ファイルを片手で抱えながら、自然を装って真島の右手を暖簾のように退かすと

意外とすんなりと彼は道を開けてくれた。

デスクにファイルを置きながら振り返ると、真島はいつもよりずっと真面目な顔をしていたけれど

やっぱりすぐにいつものふざけた表情に戻って笑った。



「あかんかぁ、やっぱり。」



そうしてぶらぶらと出入り口へ向かいながら、何気なくなまえの尻を撫でて通り過ぎようとした真島の腕を

なまえは見やりもせずに手で払った。

いけず、と言いながら真島はにやにやとパーテーションの向こうへ去っていった。

古い鉄の扉が閉まる音、次いで、彼の革靴が廊下を去っていく音を聞きながら

なまえはやっと煙草に火をつけて、片手でファイルをぱらりとめくりながら

いけずはどっちよ、と煙を吐きながら独り言ちる。























息のまるロジック









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