着地






自営業の良い所は、朝が結構ゆっくりなこと。

従業員を抱えている訳でもない個人事業主になってみてから省みれば

朝礼って本当に余計だった。

朝の情報番組が流す芸能ニュースをリモコンで消して、飲み干したコーヒーカップをシンクに置く。

なまえが玄関を出たのは、9:50だった。



「おはようございます。」



エレベーターホールまではタイル張りの廊下が続いて居て

この辺りでも一層高いタワーマンションのエレベーターはなかなか来なかった。

2機じゃ足りない程人の出入りがある訳でもあるまい、単純に高層階に住み過ぎたのだ。

エレベーターの前で下へ向かうボタンを押した隣人の背中に声を掛けた。



「どうも。」



30度程斜めに振り返った男は、いつも仕立ての良いスーツを着ている。

こんな時間に出勤なんて、きっとそこいらのサラリーマンでは無いのだろう。

尤も、そこいらのサラリーマンが住める家賃のマンションではない。

なまえだって独立して3年、やっと引っ越せた高級タワーマンションは

上京したての頃に住んでいたワンルームのアパートとは雲泥の差だった。



仕事の都合によって出かける時間が変わるなまえに対して、峯は毎朝きっかりこの時間にエレベーターに乗るようだった。

それでも週の半分くらいは顔を合わせるようになって、なんとなく挨拶をしないのも申し訳なくて

なまえの方から声をかけたのが1年前のまだ夏の名残が残っていた頃。

苗字程度の自己紹介を交わして、それ以来朝の挨拶以外の声を聞いたことはない。

もちろん隣の部屋から何かしらの物音が聞こえたことも、誰かの声が聞こえたこともない。

なまえは全く以て峯の名前とスーツの色しか知り得なかったけれど

背中に一筋寄ったスーツの皺から、かなり発達した筋肉があることだけはわかった。

あの背筋が自分の上で動いたら、どれ程エロティックだろうと妄想したことも

薄い唇が自分のと合わさったら、どんな感触がするのだろうと考えたこともあった。



静かにエレベーターの扉が開いて、なんとなく一歩引く。

無言で伝えたお先にどうぞは、無言で伝わったようだ。

エレベーターホール同様、静かなエレベーターの中では

なにかよくわからない部品が稼働する静かなモーター音がした。



「髪、切ったんですね。」



箱の奥でぽつりと、峯の低い声がした。

すぐに立駐で車に乗りこむ予定のなまえは、コートすら腕にかけたままで

うなじを無防備に晒して居た。



「えぇ、なんとなく。」



セットするのが随分楽になった髪を、片手でくしゃっと梳いた。

この男が誰かの服装を気にすることなどあったのだ、否

自分の髪形を覚えていたのかと、少し驚いた。



身体をドアに向けたまま、少しだけ振り返って答えてみる。

無表情な峯は、色素の薄い瞳でピアスの揺れる耳のあたりを見つめていた。

彼の目の色を初めて知る。

あぁ、あの目は絶頂を迎える時、閉じられるのだろうか。



「長い方が、好きでした。」



ゆっくりと身体に重力がかかって、同じくゆっくりと扉が開く。

吐き捨てるように呟いた峯はさっさとエレベーターを降りて、いつもの様に立駐へ向かった。

髪を梳いた手の遣り所に困って、なまえは首筋に掌を当てるとちょっとだけ目を伏せた。

別に、ショックってわけじゃない。








So much for my happy - ending







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