Ligne de mire










恋をしていたのかどうかも、今となっては定かではない。

俗に言うようなときめきを感じるには、胸の皮膚は硬くなり過ぎて

喉の奥がツンと甘く感じるには、煙草と酒で灼け過ぎてしまった。

彼女が出来たと嬉しそうに笑う彼に、素直におめでとうと言った笑顔が正しかったのかも

今となっては知る由もない。



特に冷える、春が来る前の冬の温度にウィスキーはよく合った。

なまえの癖はいくつかあるけれど、呑みたい酒によって店を変えるのも

なまえの典型的な癖のひとつだった。

冷えたジョッキのビールも良いけれど、まぁるい氷を入れた淵の薄い造形のグラスで

鼈甲色に光る芳醇なウィスキーが呑みたい時は、このバーに来る。

この街に住んでもう10年近くが経つ。

どの店に行っても、いつもの、で通じてしまうあたりが

すっかりこの街の住人になれたという証拠だ。



「髪、切ったんですか。」



無口なマスターがぽつりと投げかけた言葉が、自分に向けてのものだと直ぐ気づく。

この店に居るなまえ以外の客といえば、暗がりのボックス席でいちゃつくカップルくらいのものだ。



「…はぁ、まぁ。」



そろそろロングヘアーにも飽きてきた頃だ。

年度末に向けて仕事も一層忙しくなって来たし、終電で帰ることも間々ある。

春に向けてイメチェンを図りたかったから、気に入った服がショートの方が似合いそうだから。

なまえはグラスで唇を湿らせながら、頭の中で言い訳を並べた。

分厚い紙のコースターにグラスを置くと、中の氷がころんと揺れて入り口の扉が開いた。



「なんやいきなり呼び出しよってからに。」



ぶつくさ言いながら真島が静かなバーに入って来た。

ジャズピアノのBGMがかかっていた店内が俄かに騒がしく感じた。

真島の立てる音ひとつひとつが、現実味があって落ち付いた。



「呼び出したわけじゃない。」

「意味深な電話寄越しといて、そらないやろ。」



真島の異様な風貌に気づいたカップルの女が、ひぃと小さく悲鳴を上げた。

そそくさと男が会計をして、大変スマートに店を出て行った。

その間真島は振り返りもせず、出された酒に静かに口を付けた。



金曜日まで頑張って、土曜日の午後一に待ちきれず美容院へ駆け込んだ。

ばっさり髪を切って、ついでに服も買ってシャワーを浴びたらすることがなくなってしまった。

そりゃそうだ、なんせ月曜から必死で仕事に打ち込んだんだもの。

彼の事を考えない為に。

呑みに出よう、と思い立った22時。

真島の電話は留守電だったので、残した短いメッセージは

呑みに行くんだけど。なんてとても淡泊なものだった。



「珍しいやん、なまえからのお誘い。」

「別に誘ってない。」



ほぉか、と顎を上げて伏し目がちに呟く真島からの好意は確かに感じている。

惚れられている自覚も、性的な欲求をお互い持ち合わせていることも解っている。

けれど決して一線を越えられないのは、この距離感が最も心地良いと知っているから。



「偉い思い切ったなぁ。」



煙草に火を点けた真島が、副流煙を垂れ流す煙草を指先で弄ってなまえを指さす。

肩甲骨辺りで今朝まで揺れて居た髪は、もうない。

むき出しの首筋に真島の視線が突き刺さってジリジリする。



「似合う?」



前髪を掻き上げようと頭部を梳いた指は、想定よりずっと短い距離で仕事を終え

あぁ、髪を掻き上げるのも癖のひとつだったのだと気づく。



「ソソる。」



重たい髪に隠れていた耳も、首筋も、顎のラインもすべて見られている左側がひどく熱い。

真島は絶対に右側に座らない。



「いやらしい。」



鼻で笑ってなまえは煙草を咥えた。

一挙手一投足がじっとり見つめられている気がして、少し緊張すると共に少し興奮した。

失恋をして髪を切るなんて、我ながら女々しいと思いこそすれ

女が女々しい行いをするのに、如何して理由が必要だったのだろう。

やたら満足そうに短くなった毛先を見つめる真島の視線を、正面で受け止める。

この男は、女の自尊心の満たし方を知っている。









だから離れらない








prev next









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -