équipement










帰宅しても部屋は真っ暗で、外の気温より若干暖かいくらいで

人の気配のひとつもないことに、すっかり慣れてしまった。

永く付き合った男も去って、すべての家具がなまえの好みで選ばれて

染みついた煙草の匂いは、10年以上変わらないなまえの銘柄の匂いしかしない。

スーツのジャケットを脱いでコートと共にクローゼットに仕舞うと

日中の疲れと汚れがしみ込んだ髪をバサバサと広げた。



「つっかれたなぁー、今日も。」



独り言を言うのがすっかり癖になってしまった。

テレビを点けてもくだらないバラエティが煩くて、煙草に火を点けるなり

咥え煙草のままなまえは冷蔵庫の前に立った。

自炊をしないなまえの冷蔵庫はその9割が缶ビールで埋まっている。

愛しの缶をひとつつまみ出すと、テレビを点けたままベランダへ出た。

大通りを臨む柵に上体を預けてプルトップに手をかけると

ぷしゅ、と小気味良い音がして少しだけ疲れが取れた気がした。



このマンションの一室に住んで、もう永いこと経ってしまった。

ベランダで酒を呑む癖が付いてしまったのは、住み始めて確か5年目くらいだった。

高層マンションから見下ろす東京が綺麗だからとか

部屋の中で煙草を吸うのが嫌だからとか、自分に言い訳をしながら

結局街の騒音がないと寂しくて仕方がないだけなのだ。

この時間の為にベランダ用のサイドテーブルと、灰皿を購入してしまう程に。

ビールをごくり、煙草を一口吸いながら柵から両手を投げ出して夜景を見つめた。



「こんばんは。」

「…ん?!」



ちょうどビールを口に含んだ辺りで、徐に声をかけられた。

高層階のベランダで全く不用心だったなまえは液体を喉に詰まらせて

激しく咳き込んだ。



「いやぁ、ごめんごめん。ビックリさせたかな。」

「いえ、だいじょ、ぶ、で」



ゲホゲホさせながら声のした方を見遣ると、隣の部屋のベランダから

同じく柵から両手を投げ出した男が顔を覗かせていた。

引っ越しの際に挨拶もしなかったので、どんな人が住んでいるのか知らなかったけれど

なまえより随分年上であろう男からは家庭の匂いがしなかった。

きっと、なまえ同様一人暮らしなのだろう。



「俺秋山、秋山駿。駿ちゃんって呼んでよ、誰も呼んでくれないんだ。」



秋山と名乗った男は苦笑いで煙草を口に運んだ。

その手にはなまえと銘柄は違うけれど、同じく缶ビールが握られている。



「みょうじです、よろしく。」



お隣さんへ苗字だけを挨拶する、そういえば昨今表札を出すことはなくなった。

苗字かよ、と笑顔を浮かべる秋山は怪しい人にも見えるけれど

物騒な人には見えなかった。



「たまにベランダで呑んでるよね。」

「うるさかったですか。」



すみませんと詫びると、秋山は即座に否定をした。

影が映っていただけで、物音ひとつしないなまえの部屋を

相当ワーカホリックな人間が住んでいるのだろうと思っていたと告げた。



「仕事…はまぁ、適度に忙しいですよ。」

「楽しい?」

「楽しいですよ、割と。」



大学を出て、それなりに大人の恋愛をしたり習い事をしたり資格の勉強をしたりした。

ありきたりだが普通の一社会人女性らしい日常に憧れたりもした。

けれど、酸いも甘いも噛み分けてこの歳になって来ると

仕事だけが自分の居場所のように思えて寂しく、また、嬉しくも思う。



「良い事だよ、仕事が楽しいってのは。」



秋山が紫煙を吐き出したのは、ほとんど溜息に近かった。

あんまり他人を詮索するのは好きじゃないけれど、ビールがまだ残っているし

なまえも一口煙草を吸って少し逡巡した。



「俺の仕事さ、人の色んな汚いトコとか見えるんだよ。」



柵から投げ出した指の先にある煙草の灰を揺すって落とす、秋山の目は遠かった。

綺麗事ばかりで金は稼げないけれど、何がこの男をこんなに浮世離れさせたのだろう。



「あの、失礼ですけど、お仕事は?」

「金融業。」

「あぁ。」



思わず納得してしまって、急いで口を塞いだ。

だよねぇ、と笑いながら秋山はまた煙草を口に運んだ。



「そのお陰でこんな美人の隣に住めてるんだから、感謝しなくちゃね。」



適当に否定のような相槌を打って、なまえはビールを口に運ぶ。

白熱灯の明かりが部屋から漏れて、缶の底は真っ暗で見えない。

向かいのマンションの一室の明かりがひとつ消えた。



「最近はお隣さんに、作り過ぎた肉じゃがを持って行ったりしないの?」

「自炊、しないんで。」



鼻で笑って返すと、楽しそうに秋山は笑った。

非常時の壁をひとつ挟んでお互いのエリアでやり取りをするのが、とても心地良い距離で

秋山の低い声は、ずっと聴いて居たい程人の温度がした。



「うちの冷蔵庫、ビールしかないですよ。」

「いいよ、じゃあ俺がつまみ持ってくよ。意外と美味いんだよ。」



秋山の部屋からはなまえ同様物音ひとつしなかった。

人が住んでいるのかすら微妙だったけれど、今時の都会のマンションなんてすべてこんなものかも知れない。

静かな狭い部屋は現代社会の歯車を入れるケースのような物に過ぎず

一日の仕事を終えた歯車は、ケースの所定の場所で静かに朝を待つのかも知れない。



「えぇ、是非。」



口約束を交わしながら灰皿で煙草をもみ消すと、秋山も残り少なくなった缶ビールに煙草を入れて鎮火した。



「じゃ、おやすみ。」

「おやすみなさい。」



声を掛けあって、それぞれ部屋に戻っていく。

付けっ放しだったバラエティの音量がやたら大きく感じて、缶の底でリモコンを押して電源を切った。

そういえば、秋山が戻る時は部屋の中からテレビの音も、音楽も聞こえて来なかった。

この静か過ぎる一人の夜を、彼はどのように過ごしているのだろうか。

人の汚いトコを、今日も目の当たりにしてしまったのだろうか。

相変わらず物音ひとつしない壁を見つめながら、ビールの最後の一口を口に運んだ。












人恋しさにわれて








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