イデアリズムの陥








「お疲れさん。」



会社からの帰り道、いつもより少し遅くなったにも関わらず

最寄りの駅で下車すると見慣れた革ジャンが、街灯に背を持たせて立っていた。

彼の衣装はこの草臥れたジャケットとジーンズしか見たことが無い。

きっと一張羅なのだろう。



「無視は良くないよ、待ってたのに。」



他人の振りして通り過ぎようとする横に、ぴたりとくっついて着いてくる。

背の高い彼の歩幅では、早足でもあっという間に追い付かれてしまう。



「お断りしたはずです。」

「お断りもなにも、まだ何も始まってないじゃん。」



彼と私の間に、今後一体何が始まるというのだろう。

こんな脈のない扱いを受けながら、駅前でいつも張っている彼の名を

毎日教えられる所為でいい加減覚えてしまった。



「ストーカーですか、警察行きますよ。」

「時として恋愛ってのは、情熱的に行かねばならない時もあるのだよ。」



鼻歌を歌いながらついてくる品田のよくわからない理論に閉口する。

1ヶ月前、突然声をかけられた時は驚いたというより正直怖かった。

けれどこうも毎日情熱的に求愛をされては、慣れてしまうのが人間なのだろうか。

つくづく恐ろしい生き物だ。



「ねぇ、食事だけでもどうかな。一回だけデートしようよ。」

「お断りします。」

「連れないなぁ…。あ、じゃあホテルだけでもいいよ。」



キッと睨むと、目に見えて焦った顔で冗談だとかぶりを振った。

警察に相談すべきなのだろうけれど、なんだか面倒だし

そんなに危険な事案にも思えないあたり平和ボケしているのだろう。

なるべく人気の多い道を歩きながら、なんとか巻こうと試みて居るのに

こんな時に限って辺り人だかりは見当たらない。



「ねぇ、名前くらい教えてよ。」



マンションまでの10分間、品田は他愛もないことを話し続ける。

そのほとんどがなまえは綺麗だとか美人だとか可愛いだとかで

当たり前の様にだんまりを決め込んで歩いた。



「教えてくれないなら勝手に呼ぶよ、キャサリンとか。」

「迷惑防止条例ってご存知ですか。」



駅前でキャサリン等と大声で呼ばれた日には、きっと速やかに引っ越すだろう。

仕事も忙しいのに、なんだってこんな負担を神様は強いるのだろう。

大きく溜息をついて立ち止まると、品田の目が嬉しそうに大きく開いた。



「なんで私なんですか。他にもその辺にたくさんいるじゃないですか。」



急に立ち止まったなまえに接触しないよう、ピンと背筋を伸ばしたまま

品田が2、3度瞬きをした。

キョトンとした顔は意外と幼く感じたけれど、すぐに見慣れたへにゃっとした笑顔で

伸ばしっぱなしであろう髪を掻いた。



「そりゃあ、君の顔が好きだからだよ。」

「顔って…」



あぁ、前々からそうじゃないかなぁとは思っていたけれど

この人やっぱり頭のおかしい人だ。

眉間に寄せた皺はそのままに、呆れてぽかんと開いた口をきゅっと結ぶと

足早にマンションへ向かった。



「ちょ、待ってよ。褒めてるのに。」

「容姿だけで人を判断するのは浅はかですよ。」



ナンパされたり、一目惚れされたりしたことはある。

きっと容姿は人並みなのだと自負はあるけれど

こんなに入れ込まれることは生まれてはじめてだったから、嬉しいよりも恐怖が勝った。



「だって、教えてくれないじゃん。」



あっという間に追い付いた品田がなまえの周りをウロウロしながら話しかけてくる。

最近毎日こうだから、帰路にある馴染みの立ち飲み屋で一杯やっていくこともできない。

きっとついて来るに違いないと、自信を持って言える。



「ご覧の通りの、冷たい性格です。」



マンションまであと少し、最後まで追跡してこないのはきっとこの男のせめてもの誠意なんだろう。

似たような色の外装の、似たようなマンションが並ぶ住宅地へ至る大通りの角で

いつも彼はまたねと笑ってどこかへ行ってしまう。



「俺、物質主義者なんだよ。」

「はぁ?」



バイバイと広げられた指は長く、大きな掌は暖かそうだった。

歯を見せて満面の笑みを見せる品田が角を曲がらずに消えたのを見送って、マンションのエントランスの低い階段を登った。

バッグの中からキーケースを取り出しながら、彼の台詞を反芻する。

エレベーターに乗ってからもやけに品田の声が耳に残って仕方なかった。

成程、彼の言うことも一理あると納得してしまうことにも

あの男が意外に難しい言葉を使うことにも、ついつい笑ってしまって

部屋の階に着く頃には、明日には名前くらい教えても良いかななんて思い始めていた。











朝も昼も夜もなさに酔って











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