シャ







名前は何だったか、上手く思い出せない。

どんな顔をしていたのかも朧げにしか覚えて居ないのに、着けていたネクタイの色は鮮明に覚えている。

今なまえの上で息を荒げて、事に及ばんとしている男が首筋に吸い付いている。

狭い日本の、狭いラブホテルの一室では日夜こんなことが繰り返し行われているのだ。



「待って。」



なまえが制止をかけると、男は首筋から顔を上げた。

欲情しきった男の顔が、暗い照明に映し出されて

そういえばこんな顔をしていたと思い出した。



「気が乗らない。」



熱い男の胸板を押し返してベッドから身を起こすと、足にひっかけたままだった下着を身に着けた。

着込んで柔らかくなったパンツと、家の洗剤の匂いがするセーターを雑に着て

首元から髪を引っ張り出した頃になって、男が我に帰った。



「待てよ。どうしたの、急に。」

「別に。」



コートを腕にかけて、バッグを肩に掛けた。

ラブホテル特有の安っぽいローテーブルの上に置きっ放しだった車のキーを手に取ると

すたすたと出口へ歩いていくなまえの背中に、動揺した男の声が聞こえた。

うるさい、と一言呟いて廊下の無駄にふかふかした絨毯の上にパンプスのヒールが到達すると

なんとなくあの男の苗字を思い出した。



何事もなかったかのように車に乗りこみ、バッグを助手席に投げてエンジンをかける。

少しの迷いもなく車を発進させ、片手で携帯を弄って発信した。

ラブホテル界隈に街灯が少ないのは当たり前だけれど、こうも暗いと運転がしにくい。

きっと、子猫が飛び出してきても気付かず轢死させてしまうだろう。

4コール鳴った所で、電話の向こうがやおら騒がしくなった。



『なまえやんかァ、どないしたん。』

「どうもしない。今、暇?」



西谷の声色がアルコールを摂取したことを存分にアピールしていた。

日が暮れて彼が素面で居ること等、ここ数年一日足りともないのだけれど。



『おぉ、ちょうど暇やなぁ思とってん。』



組長サンひどぉい、と電話口で女の甘ったれた声が聞こえた。

この騒がしさはきっとキャバクラか何かだったのだろうか。

悪いことをしたなと思ったのは一瞬で、西谷が件の女に喧しいと窘めるのを黙って聞いた。

どうせこの世にひとつだって、暇潰しになるようなものは存在しない。



「拾うわ。」



ウィンカーを点滅させながら交差点を大きく右折する。

愛車を外車にして後悔したことは、修理にやたら時間と金が掛かることと

通話しながらウィンカーレバーを操作する際に、一度右手をハンドルから離す時間のロスだ。

難波の込み入った地帯を告げる西谷に、適当に出てきてと告げて電話を切った。

休前日の賑やかな繁華街は浮足立っていて、密閉性の高い車内でも

酒とタバコの匂いが染みついてくるような気がした。



目印になるようなものがありすぎて雑然とした路地で西谷を拾うと、彼はすぐに助手席に身を沈めた。

なまえも特に声をかけることはせず、何も言わず車を出した。

BGMすらかけない車内は酷く静かで、西谷が古い歌謡曲を歌う鼻歌がよく聞こえた。



「明るなったなぁ。」



西谷が今夜初めてなまえに話しかけたのは、車に乗ってから実に1時間後。

16号をひたすら走っている最中だった。

彼の指す明るいが、最近開けて来たこのあたりの商業施設の増加を指すのだと知って

なまえは特に返答もせず、こくりと頷いた。

しばらく無意味に市内を走り回ったけれど、結局暗い場所を探して海沿いへ出てしまった。

天保山JCTで降りて、行ける処まで下道を走って

なんとなく行きついた物流倉庫の近くにぼんやり光る自販機の前で車を停めた。



「珈琲、飲む?」



サイドブレーキを引いて声をかけると、あぁと肯定の返事が返ってきた。

それからしばらく無言で動かずに居ると、不意に西谷が吹き出した。



「買うてくれるんちゃうんかい。」

「買ってくれるのかと思って。」



なんでやねんと笑いながら車を降りる西谷に次いで下車すると

笑いながら二人で自販機のホットコーヒーを買った。

長いことハンドルの上に置かれていた指先に、缶が痛いほど熱かった。



「良かったの、おネェちゃんたち。」



適当なベンチも見当たらず、車のボンネットに肘をかけて煙草を蒸かす西谷に問いかけると

間抜けな返事と共に紫煙がぼんやりと口からはみ出した。



「えぇわ、どうせ。」



どうせ、に続く言葉が何なのかは知らないけれど

きっと根も葉もない言葉が続くに違いない。

そう、と静かに相槌を打ったなまえの言葉も西谷にしてみれば

どうせなのだろう。



「そっちこそええんかい。」

「何が。」

「お楽しみでしたァっちゅう顔してからに。」



言われてみれば、煙草のフィルターに口紅がつかなくなっていた。

適当に着なおしただけの服はしわくちゃで、髪も雑に掻き上げただけで碌に撫でつけてもいない。

ラブホテルから出て来たままの、褪めた女の顔が車窓に映っていた。



「珈琲が飲みたくなって。」



フィルターを唇につける、息を吸いこむ、肺を汚して二酸化炭素と副流煙をまき散らす。

一連の動作がやけに愛おしく思えた。



「お互い様やな。」



工場の明かりがぼんやりと遠くに見える、静か過ぎる大阪湾を臨みながら

ケタケタ笑う西谷が、残り少なくなった小さな缶の中に吸殻を入れて鎮火する。

躊躇なく暗い海へ投げ捨てる行いがあまりにも自然で、なんとなく笑えた。










二人で居て楽しけゃ、尚の事












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