リチェル





暗い部屋に閉じこもって、声を上げて泣けたらどれ程気が楽になるだろう。

狭い東京の集合住宅の壁は冷たくて厚くて、生きていくのに必要最低限の家具だけ揃えた部屋にはテレビさえない。

泣き声を上げたらきっと反響して、余計に虚しくなってしまうから

こんな夜は廃れたバーで呑むのがきっと性に合っている。



休前日でもそんなに混み合わない静かなバーは、平日ともなれば

なまえ以外の客は入ってくる気配すらなかった。

雑然としたカウンターと、オシャレだけど飲食店の店員には見えないマスター。

冷たいビールより渋いブランデーがよく似合う狭い店で

何杯目かのお代わりをしたけれど、一向に気分は晴れなかった。



「悩み事ですか。」



マスターが口元だけに笑いを浮かべて遠慮がちに問うた。

目を伏せたまま小さく笑って、首を横に振る。

万事順調、大して悩みなんてない。

ただ、疲れてしまっただけ。



「一人になりたくて。」



部屋の扉を閉めても感じる街の喧噪も、慌ただしい日中の仕事も

すべて自分が選んだことなのに。

そうですか、と何かを察したマスターがまたグラスを拭く作業に戻った。

煙草を吸おうか、先ほど吸ったばかりなのに。

それでも手持無沙汰にグラスを触ったりなんかしていると、店の扉が開いて

外の空気がするりと店に入りこんだ。



「見つけた。」



静かな革靴の音を立てながら、なまえの隣ひとつ空けて

並びのカウンターに秋山が座った。

嗅ぎ慣れた現実的な都会の夜の匂いがした。



「見つかった。」



頬杖をついたまま、秋山の顔を見ずに答える。

誰かに会いたい気分でも、誰にも会いたくない気分でもなかった。

秋山は何か適当にとマスターに注文すると、少し間があって供されたウィスキーはたぶん

なまえの目の前と同じ銘柄なのだろう。



「探しちゃったよ。」

「お手を煩わせたかしら。」



別に、と笑う秋山が煙草に火を点けた。

それ以上何も言わない彼の隣で、熱灯に照らされた丸い氷がコロンと溶けて

樽の香りのするウィスキーが、飲んで欲しそうになまえを見上げていた。



「一人にして欲しかったのに。」



苦笑いをしながらグラスに口を付ける。

片手でつかんだグラスの中の氷を、人差し指でコロコロと弄びながら

秋山が足を組みかえる音を聞いた。



「好きな女には、意地悪したくなるものだよ。」



誰にでも心を開いている風を装い、その実非常に広いプライベートゾーンを持っている。

こういう男が一番怖いのだと昔の人は言うだろう。

世が世なら、ジゴロとして名を馳せたに違いない。



「弱っているところを狙うことも、常套手段。」



煙草を口に咥えると、ライターに手を伸ばす前に火を寄越された。

男の手で囲われた青とオレンジの明るさが揺れるのは美しく

照らされた指先に僅かばかりのエロティシズムさえ覚える。



「手の内を見せることも?」



自分の発した声なのに、可笑しい程甘ったれて白々しく聞こえる。

秋山がなまえの唇を満足そうに見つめる目線に羞恥を隠し切れないまま

さぁどうかな、と笑う声に、返事ひとつ持ち得なかった。









逃れる気等いのです


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