ライラック
途中で下車してひとりで歩くことに対して、福岡での一件以来過剰に反応される。
ちゃんと帰るよと苦笑いで部下を制して無理やり車を降りた。
たまにはひとりで歩きたくもなるさと付け加えると、あまり納得のいかない顔の運転手が
そろりそろりと車を発進させた。
黒塗りのセダンが通りを曲がる前に煙草を取り出して火を点ける。
そういえば、自分で点火したのも随分久々な気がした。
良い女だと、心から称賛していた。
それを終ぞ口に出して伝えることはなかったけれど、堅気の仕事で十分食っていけるなまえは
他の女のように媚びることはなかった。
一度冗談交じりに姐さんにならないかと持ち掛けた時等、酷く眉間に皺を寄せて
仕事に支障が出るから嫌だと言い切られてしまった。
往来をすれ違う水商売の女が、いまいちパッとしない背広の男と歩いている。
同伴だろうか、安っぽい香水の匂いが煙草の煙を巻いて香ると
なまえのものはどんな匂いだっただろうかと考えた。
あの女性特有の甘ったるい匂いと、洗剤と煙草の香りが混じった
不思議な匂いに安心したことだけは、今でも覚えている。
別れ話を持ち掛けられたのは、何でもない平日の夜だった。
久々に夜少し時間が出来たからとなまえを誘って、夕食を摂ろうとしていた。
仕事を終えたなまえを拾って、街から少し離れた料亭に向かう車の中で
ぽつりとなまえがもう終わりにしましょうと、ありきたりな別れの文句を吐いた。
「理由くらい、言えねぇもんなのか。」
「知ってどうにかなるものなの。」
静かなエンジン音の合間に雑踏が遠く聞こえる。
お互い車窓を見るともなく眺めながら、願わくばいつまでも信号が青のままで居てくれと祈った。
「もう決めたのか。」
「 解ってたでしょう。」
進行方向のどこか遠くを見つめるなまえの横顔の表情は変わらない。
焦る顔も泣いた顔も、怒る顔も媚びる顔も、結局見ることはなかった。
ただたまに笑う口元と、誰も入りこめないような無表情だけを知っていた。
なまえのことを思い出す時はいつも横顔だった。
しばらく路地をいくつか曲がって歩いて、パチンコ屋のネオンが明るくなったかと思うと
少し前方の大通りに、先ほど乗っていたセダンが停まっていた。
小学生の散歩だって、もうちょっと自由に歩けたはずだろう。
短くなった煙草を側溝に捨てて車へ向かうと、運転手が慇懃無礼に扉を開けた。
高いヒールの音を響かせて歩くなまえの足音に似た、どこかの女の歩く音がする。
生きる世界が、違い過ぎただけだ。
返事もできない問いかけを
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