終電アサンプョン

























幼い頃、眠る前のベッドの中で

自分はさる王国の王族の末裔の姫君なんじゃないかという妄想を抱いた。

少し大きくなって、眠って居る間に鼻があと少し高くなれば良いと願った。

もう少し大人になって、朝起きたら会社がなくなってしまっていれば良いと祈った。

そして今になって、もういっそ、夜が明けなければ良いと思っている。



終電間際まで仕事をするのは日常茶飯事になった。

会社の施錠をする手順も慣れたもので、明かりを消したオフィスは憩いの空気というより

明朝の戦いに備えて息を顰める獣の隠れ家のように見えた。

バッグを担ぎ、鍵を守衛室へ預けて階段で屋外へ出る。

この時間はもう、エレベーターすら動作していない。

駅近のオフィス、少し小走りになれば終電は十分間に合う。

頭で考えるより身体が覚えている、少し大きな音でヒールを鳴らしながら

煌々と蛍光灯の光る駅へ急ぐなまえを何かが引き留めた。

そしてふと、あぁ、やっぱり私は王族の末裔なんかじゃないんだと知った。

どれくらいそうして居たのだろう、多くの人が明るい駅へ吸いこまれていくのを見ながら

終電への乗車を促すアナウンスが駅の外まで聞こえてくるのを

ぼぅっと聞いていた、今夜は涼しい夏の夜だ。



「良いんですか、終電。」



往来の邪魔をするのは流石にはばかられて、駅前に設置された喫煙所で立ち竦むなまえに

灰皿を挟んで反対側から声を掛けた男が秋山だった。

顔を上げて見て見ると、夏に不似合な色のジャケットを

だらしなく着崩した、壮年の男だった。



「そちらこそ。」



乗降者数の多い駅とはいえ、この時間にここいらに居る人間はこぞって電車に乗りこみ

各々のつまらない日常を支えるベッドタウンへと帰って行く。

駅へ急ぐ人々の足が段々早くなってきて

いよいよ終電の発車時刻が近づいてきていることを知る。



「俺はここら辺なんで。」



悠々と煙草を蒸かす秋山は手ぶりで適当な方向を指した。

通りで社会人らしからぬ服装をしている訳だ、と合点がいった。

なまえは、はぁ、だとか適当な相槌を返して駅へ吸いこまれていく人々を見送っている。

煙草を吸おうか逡巡したけれど、夏の生温い空気の中でニコチンの匂いは美味く感じなくて

結局バッグにすら手をかけずに彼女は思考を停止した。



「あれ、もしかして誰かと待ち合わせだった?」



ひとつ革靴の足音がして、秋山がなまえの隣へと立つ。

言葉の端には、そんなわけないという無言の確信が感じられた。

煙に巻くのも面倒で、なまえはやっと否定だと解る幅で首を横に振る。

駅へ向かう人々の顔は一様に能面のように無表情で

自分も普段ああなのかと、少しだけ背筋が冷たくなった。



「私、毎日、あの電車に乗るんですけど」



徐に口を開いたなまえの声は、自分で思っているよりずっと小さかった。

駅員が乗車を促す遠いアナウンスにすらかき消されそうな彼女の声に

秋山はうん、と相槌を打った。



「なんだか、ゴキブリの捕獲機に見えませんか。」



喫煙所からは駅のホームが見えないのに、今頃あの鉄の入れ物にぎゅうぎゅう詰めにされた人間の手足が

ドアからちょろちょろと伸びて居るであろうことが想像に難く無かった。

餌を取りに都心に来て、卵を産みに地元へ帰る人間にゴキブリが似て居るのか

ゴキブリが人間に似て居るのかは解らない。



「酔っぱらってる?」

「素面なんですよ。」



揶揄いながら問う彼が、今度はジェスチャーでイケないお薬でもやっているのかと問うた。

確かに、ちょっと危ない人みたいな発言だったなと思い直し

なまえは笑いながら手を顔の前で振って否定した。



「良かったら車で送って行こうか。」



短くなった煙草を鎮火しないまま灰皿に放りこんだ秋山が申し出る。

約1000度の火種が水面と触れあう、小さな終焉の音がした。



「え、いや、悪いですし、あの、そんな」

「冗談だよ。俺、もう酒呑んじゃってるし。」



言いながら首を回した秋山の関節が鈍く鳴った。

明るい駅前とはいえ時刻は深夜、言われて見れば確かに彼からは酒の匂いが少しだけしていた。



「あれ、ナンパなんだけど、気付いてなかった?」



返答を探しあぐねて、ぽかんとしているなまえの目線と

同じく驚いたように見開かれた秋山の目が合った。

なるほど、ナンパか。

確かにお誂え向きの夏の夜に、随分平和ボケしている自分に笑ってしまう。

なまえは自嘲気味に鼻で笑って、今度は首を縦に振った。



「良いですよ、普段はあんなゴキブリの一員ですが。」



自分は結局王族の末裔でもなければ、鼻だって高くはならなくて

世界を救うヒーローのスカウトも来ないまま、会社は明日も変わらずそこにある。

だからナンパに軽々しく着いていったって、何も変わりはしないのだ。

秋山に先だってさっさと駅を後にするなまえについて歩きながら

少しくらい用心した方が良い、と彼は苦笑いで忠告した。



「そんなに卑下するもんじゃないよ。少なくともゴキブリよりは美人だし。」



なまえに追い付いた秋山が次の交差点を左に曲がるよう指示する。

そこに良い店があるのだと、怪しい店ではないのだと加えて伝えた。



「なら、何に見えますか。」

「蝶だね。そう言っておけば、女の子は大体喜ぶから。」



本音を隠しもしない、秋山の発言には好感が持てた。

ならあなたは蜘蛛ですね、と返すと定型文だと笑われそうで

なまえは少しだけ言葉を呑み込んだ。

秋山が案内した店は、いつかなまえも同僚と訪れたことのある店だった。



「蝉に見えます。」



あと数歩で店へたどり着く頃になってなまえが答えた問答に

秋山はふぅんと意味深な相槌を打った。

夏の夜の短い関係にはぴったりだと思った嫌味を、彼は顎に手をあてて何か考えながら

店の入り口の扉を開いて、なまえが入るのを待ってくれた。



「一週間なんて優しいね、最長記録だ。」



外開きの扉を右腕で抑え、入店しようとするなまえの耳に秋山の低い声がする。

なまえは眉を上げて探るような目線を送ると、彼も同じように眉を上げて返した。

白馬の王子様も、魔法使いのおばあさんも、街を破壊する怪獣も来ない東京の夜は

静かに、アルコールの中に更けていく。
























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