あらざらむ
佐川に教わったことは意外とたくさんあった。
ワインとビールしか呑まなかったなまえに日本酒を教え
21:00を過ぎたら固形物を摂らないなまえの習慣を鼻で笑い、
呑んだあとのラーメンの旨さを教えた。
いけ好かない奴との距離の置き方なんかも教えてくれたものだから
友人たちは変わってしまったなまえから一人、また一人とゆっくり離れて行った。
男の喜ばせ方なんか特に入念に教え込まれたけれど、その裏で
気乗りしないセックスは断っても良いのだということを知り
佐川の気紛れな態度に逐一傷ついたり、心を乱したりするなまえに
面倒な生き方をするなと教えてくれた。
「なぁ、」
ここ数日、セックスの頻度が飛躍的に増えている。
浮気相手に振られたのだろうか、それとも元々なまえが浮気相手なのか
どちらか知らないけれど、なまえは何の前触れもなく家にやって来た佐川の愛撫を
最近は断ることなく受け入れた。
クーラーの冷気で汗が引いてきた肌に適当なシャツを羽織って煙草に火を点ける
なまえのうなじに佐川の指が伸びて、ゆっくりとなまえを抱き締めた。
「愛してるよ。」
煙草の先端を焦がしたライターの火を消す。
ちりちり灼ける煙草の煙を吸いこむこともせず、なまえは首だけで振り返った。
「何、どうしたの。」
セックスする時でさえ、彼はあまり肌に触れることはなかった。
前戯さえそこそこに、簡略的且つ効率的な性行為をした後は
お互い静かに煙草を吸って、シャワーを浴びたり外出したり眠ったり。
キスは、なまえが嫌がる時のみ行われた。
「もうちょっと可愛げのある対応できねぇの。」
「つい。」
怪訝そうに顰めた眉根を解放して、なまえはゆっくり煙草を吸いこんだ。
背中からなまえの肩に腕を回したまま佐川が指先でベッドサイドの煙草を探り当てると
唇に咥えて、火をつけるよう無言で催促した。
「またどこかのキャバ嬢にフラれたの?」
「あぁ、万年フラれてばっかだよ。」
左手に握ったままだった100円ライターで火を点けてやると、佐川は美味そうに一服吸いこんだ。
佐川に勧められた日本酒は確かに旨かったし、繁華街のはずれにある深夜まで営業している豚骨ラーメンも美味しかったけれど
彼の煙草の銘柄だけは、吸っても上手いと感じなかった。
「愛してるよ。」
なまえの裸の肩に顎を持たせたまま、佐川がふざけた調子で呟いた。
同じ方向を向いているなまえから彼の表情は伺えないけれど
きっといつもと同じ、ニヤついた薄ら笑いを浮かべていることだろう。
「やめてよ。」
鼻で笑ってなまえは煙草を唇に咥えた。
佐川と懇意になってから、他の男達は自然消滅的な形で消えて行った。
元々身体だけで繋がっていた男達だ、別に寂しくも恋しくもない。
一度、佐川が見下した様な笑い方で俺に一途になったのかと問うてきたけれど
別に佐川に惚れたわけじゃない、他が阿呆に見えて仕方なくなっただけだ。
「似合わないことしないでよ。」
二度目をしたいのだろうかと彼の肌に探りを入れても、そんな素振りは微塵もなかった。
なまえの肩に掛けられた腕はだらりと伸びて、だらしなく空中にぶら下がっている。
その腕も、情事の気配を漂わせたりはしていなかった。
「連れねぇ女。」
なまえは眉を上げた表情を佐川に向けただけで、特に返答をしなかった。
それっきり、煙草を吸い終わるまで会話は再開されないまま
いつも通り佐川はシャワーを浴びて外出し、なまえはベッドに丸まって眠った。
最後に彼は、男の死に際の冗談には付き合うべきだと教訓を残したのだと気づいたのは
佐川が死んだと聞いた、あれから1ヶ月後のことだった。
いまひとたびの 逢うこともがな
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