に叢雲


























なんだか帰宅するのも気怠い、木曜の夜。

集中力が持続せず、早々に仕事を切りあげてぶらぶらと街を歩いた。

目についた適当なバーに入って赤の重いのをひとつ求めた。

ワインは良い、どこで呑んでもいつも同じ味がする。

手持無沙汰にグラスの脚をなぞり、ぼぅっと今日あったことなんかを考える。

毎日大体同じことの繰り返し、目新しい発見も楽しいことも何もない。

現代社会人の人生なんてきっと、そこいらの蝿よりもつまらない。

3/4程を飲み干して二度目の溜息を吐いたあたりで、隣のカウンターの椅子が引かれた。

平日の、ほとんど空席のようなバーでわざわざ隣に座る男を

なまえは頬杖をついたまま、目線だけで確認した。



「こんばんは。」



挨拶を投げかけた彼は色の白い、品の良さそうな男だった。

穏やかな表情や高級そうなスーツは、どこかの御曹司だろうか。

カウンターはなまえと、その男以外に誰も掛けてはいなかった。



「やぁ、綺麗な人だ。今夜は、あなたを肴に一杯やりたい。」



ゆっくりとカウンターに腰掛けた彼は、少しの恥ずかし気もなく言ってのけた。

まだ何の返答もしていない、なまえは少々呆気に取られながらも

ペースのつかめない彼の所作や言動に抵抗しあぐねていた。



「正面切って口説いてくるタイプには、見えませんわ。」



色々と切り返す選択肢を考え、結果思ったままの感想を述べた。

そうですかね、と答えた男の言葉には否定も疑問も含まれていなかった。

バーテンが彼の前にウィスキーを、なまえの前に同じワインを並べた。



「よろしければ、どうぞ。肖像権料です。」



この街は、言う程怖い街じゃない。

けれども幼い頃、よく言い聞かせて貰ったものだ。

しらないひとにおかしをもらってはいけないよ、と言った小学校の教師を思い出す。

もし今彼女に会ったら問うてみたい。

知らない男に酒を奢られた時の対処法は、あなたならどうするのかと。

なかなかワインに手を付けないなまえに、男は自分のグラスを持ち上げて乾杯を促した。

なまえはウィスキーを見、男の目を見、ゆっくりとワイングラスを持ち上げた。

短くて高い音がして、グラスがほんの一瞬触れあった。



「怪しい者ではないんですよ、行きずりの客でして。」



彼はウィスキーで口を湿らせると、上着を脱いだスーツのシャツの胸ポケットから名刺を取り出した。

カウンターに置いてスライドさせる、名刺は二人の間の、少しなまえ寄り辺りで止まった。



「経営をされてるんですか。」

「一応。まぁ、小さい会社ですが。」



グラスを揺らして中の氷を回しながら、立華が呟く。

白熱灯に照らされた彼の顔はきっと女性に好かれる顔立ちだと感じた。

それなりに社会人経験の長いなまえからしてみれば

この顔で社長ならば、女に困ってはいないだろうにと疑問に思う。

そんな思考を見透かしたかのように、グラスを指で挟んだままの立華が

先程の話ですが、と口火を切った。



「確かに私は、ナンパなんてするタイプじゃないんですがね。」



背後のボックス席で呑んでいた、男女の二人組が立ちあがった気配がした。

カウンターの向こうで作業をしていた店員が顔を上げ、出入り口へ向かう。

この店はテーブルチェックのはずだ、気を遣ったのだろう。

なまえがなかなか手を付けないワインを立華がちらりと見遣って

彼は特に強引に進めるでもなく、とつとつと話を続けた。



「不動産業をやっていると勝負所と言いますか、行くべき時があるんですよ。」



相槌を打ちながら、二人の間で宙ぶらりんになったままの名刺を盗み見る。

住所は一等地の自社ビル、業界の違うなまえには社名から判断はつき兼ねたけれど

名のある企業であるらしいということはわかった。



「それと同じです。綺麗な人を、他に取られる前に口説きたかった。」



カウンターにゆるく腕を組んでいたなまえが、ふっと笑いを零す。

よくもまぁ、そんな歯の浮く台詞を真顔で言えるものだ。

それでも不思議と、そんな気恥ずかしい程の口説き文句が良く似合う

不思議な雰囲気のある男だ。



「手慣れていらっしゃるようにお見受けしますわ。」

「とんでもない、私は案外奥手でね。」



立華が笑いながら、ジェスチャーで煙草を吸って良いかを問うた。

なまえも同じくジェスチャーで促すと、彼はシガレットケースを取り寄せた。

きちんと美しくならんだ一本一本は、几帳面そうな立華の印象を十二分に引きたてた。



「現に今も、あなたの名前を訊く勇気すら出せないでいる。」



薄い笑いを浮かべた立華が煙草に点火するのを左の耳で感じながら

なまえは今一度短い笑いを零すと、やっとワイングラスを手に取った。

同じ葡萄の高いものはいくらでもあるけれど、わざわざ同じ銘柄を出すあたり

一筋縄ではいかない男なのかも知れない。



「肴に名前が必要かしら。」

「駆け引きは苦手なんです。奥手だと言ったでしょう。」



どの口が、とは言わないでおいた。

立華の視線が両目に突き刺さって、薄暗い店内なのに気恥ずかしくて目を逸らしてしまう。

なまえが観念したように腕時計を外すと、彼は嬉しそうにウィスキーを口に運んだ。















花に






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