袂を

















仕事がどんなに忙しくても、前日徹夜をしていても必ず渋澤からの呼び出しには応じる。

他の男なら絶対にこんなことはしない、それほど渋澤に惚れている自分に

呆れこそすれ、その実浮足立つ心を抑えきれないまま口紅を引いた。

渋澤が連れて行くのはいつも、離れのある料亭で

なまえがつきだしの海老を美味いと褒めてからというもの、季節でなくても必ず海老が出てくる。

そういう心配りにさえ心を奪われてしまう、本当に惚れているのだと自覚している。



「来週の水曜の夜は空いてるか。」



冷酒を舐めて湿らせた唇で、渋澤が問う。

向かいで料理に舌鼓を打っていたなまえの頭の中を仕事のスケジュールが駆け巡った。

水曜日は少し自信がない、手帳を一度確認したいところだけれど

なまえは二つ返事で首を縦に振った。

彼女の様子をちらりと横目で確認した渋澤は、硝子のお猪口を静かに置きながら

そうか、と表情のない声色で呟いた。



「親父と飯、行って来い。」



いつも、食事の時もホテルでさえも携帯が鳴れば即座に反応し

落ち着いて会話を楽しみながら食事なんて出来ないものだから

珍しくなまえの向かいで静かに過ごす今夜、率直に言って浮かれていた。

箸を置くことすら忘れ、固まったままのなまえに

薄いサングラス越しの目線を投げて寄越す渋澤は無表情だった。



「なんだ。」

「親父って、堂島組長の…?」

「それ以外に誰が居るってんだ。」



当たり前のことだと言わんばかりの口調で、渋澤は食事の続きを開始した。

彼の箸先が陶器の器に当たる音だけが聞こえた。

以前渋澤に連れられて堂島組長と面識を持ったことはある。

流石直系の中でも最有力の組の長だけあって、貫禄のある人だという印象だった。

髪から爪先まで舐めるように見られるのを、居心地悪く感じながら

お前の女かと問われた渋澤がいいえと即答したのをよく覚えている。

あぁなるほど、こういうことか。



「親父は解り易いのが好きだ。露出の多い格好で行けよ。」



何も言わないなまえに、畳みかけるように渋澤が続けた。

食事だけで済まないことなど、言われなくても解ることだ。

随分勝手なことを言っている癖に謝罪のひとつもない、それでもこの男に惚れている自分が

全くの阿呆だということも、よく解っている。



「そろそろ、頭が狂ってしまいそうよ。」



なまえの心情を知っていながら、渋澤は彼女に手を出したことはなかった。

初めこそ意外にも紳士なのかと感心していた、自分は無智な小娘だった。

どれほど食事を重ねても指先ひとつ触れて来ないのは

いざという時の為にゆっくりと調教していたのだと気づいた時にはもう遅かった。

なまえが投げやりに目を伏せると、咀嚼していた渋澤がまた日本酒で喉を潤した。



「女ってのは、そう簡単に狂ったりしねぇさ。そうだろう。」



どんな時も冷静を崩さない、彼の最後の問いかけはなまえに向けたものなのか

彼自身に向けたものなのか分からなかった。

きっと渋澤自身に言い聞かせているのだと良い、と思いながら

なまえは恨み節を呑み下した。



「餞別にキスのひとつでもしてくれれば良いのに。」



猪口と同じ、硝子製の徳利を傾けて酒を注いだ渋澤はこちらを見もしなかった。

なまえがどんな顔をしているか、知って置いて欲しいと思う欲求さえ彼は受け付けない。

徳利の先から最後の酒がぽたりと落ちる間に彼は、馬鹿野郎と呟いた。



「親父の女になる女に、手ェ出せるかよ。」



にべもない彼の言葉に、心は深く傷つくけれど涙は一筋も流れない。

渋澤に惚れてこの方流れつくしてしまったから。

全く想定の範囲内の彼の返答に、なまえが言葉を続けないでいると

勝手に食事を終えた渋澤が断りもなく立ち上がり、下手の出口へ向かって行く。

堂島組長に気に入られれば、また何かの折に差し出せるようなまえを繋ぎ止めて

気に入られなければ、それか飽きられてしまえば簡単に捨てられるのだ。

そちらの世界から見れば賢い手札の切り方も、一般社会から見れば所詮

阿漕な男の小細工に過ぎなかった。



「それでも、諦めがつかないのよ。」



障子に手をかけようとした渋澤を呼び止める、なまえの声は震えていなかった。

惚れた男の指図で好きでもない男に抱かれるのも、耐えられる。

渋澤の出世の為なら何だってしてやると、腹はとうに出来ている。

一拍間があって、渋澤が静かになまえの隣に屈み込むと

見上げるなまえの顔を覗き込み、ゆっくりと彼女に手を伸ばした。

見つめ合ったままの渋澤の指が頬を過ぎ、顎を過ぎ、そうしてなまえの細いネックレスに手をかけると

その先端の小さな飾りにキスをした。



「また、連絡する。」



渋澤の指を離れたネックレスは、音もなくなまえの鎖骨の間に着地した。

振り返らずに出て行く渋澤の背中が障子で遮られると

つくづく世界は不幸だと嘆きたくなった。











れてみたさの 春の雨







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