食堂、廊下、中庭、気づけば至るところでアイツからの視線を感じていた。
ああ、私のことが好きなんだ、傍目からみても一目でわかるほど、奴の私に対する好意はあからさまだった。
目が合うとたちまち顔を赤らめ慌てて顔をそらす仕草に何度となく苛立たされ、うわずった声で挨拶されることに幾度となく嫌悪感を抱いた。
何故それほどまでに腹をたてるのか自分でもわからない。雷蔵にもっと優しくしてやれといわれる始末だ。何故好いてもない女に優しくしなくてはいけないのだろうか。
雷蔵にそう言われ、ますます私は奴、みょうじなまえへの不快感を持つことになった。


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夕方、井戸の近くで胸のあたりをおさえ、うずくまるアイツの姿を見つけた。

「おい」

どうやら私にもそれなりの情はあるらしい。気付けば奴の傍に歩み寄り、そう声をかけていた。びくりと肩を揺らしこちらを見上げるその顔は、余程苦しいのか涙で濡れている。

「は、ちやくん……」

「どうしたんだ」

目線をあわすようにしゃがみこんで具合を聞く。すると、無理矢理口角をあげ何でもないと歪な笑顔で応えた。
何故嘘をつく。
何故苦しいと言わない。
返答とと状況があまりにも噛み合ってないことにまた、苛立つ。

「嘘をつけ。苦しいのだろう」

「大丈夫。すこし……休めばすぐ治るから」

ひゅうひゅうと浅く、荒い呼吸で喋るコイツをみて、いつか誰かが『くのたまのみょうじは持病の発作がたまに出る』と言っていたことを思い出した。
まあ、本人もすぐに治ると言っていることだし放っておくか。そもそも、私とこいつは無関係なんだから気にかける必要なんてない。
これが初めての発作、ということでもないようだからそのうちもとに戻るだろう。

「大丈夫なら私は消えるとする」

じゃあなと言ってまだ苦しそうに息をするアイツを私は置いて長屋に戻った。
分厚い雲に覆われた空は低く、今にも雨が降ってきそうだった。今夜はひと雨くるな。



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その夜、夢と現の狭間で微睡んでいると何やら外が騒がしいことに気づいた。急げだのまずいだの、緊迫した声とともにざあざあという雨の音がする。

「何があったんだろう」

「さあ……」

雷蔵も目を醒ましたらしく、呂律の回らない舌でそう聞いてくる。
寝間着姿のまま草履を履いて表にでてみれば、先生方が血相をかえて医務室に向かうのがみえた。
近くを通った木下先生に何事ですかと訊ねると実習でくのたまが負傷したとだけ告げ、走り去ってしまった。よほど重傷らしい。
いったい誰が……。
気になって仕方ないといった様子の私を察したのか、「今僕たちがいっても邪魔になるだけだから、じっとしていよう」と雷蔵に言われたのでしぶしぶ布団に戻ることにした。濡れた身体が、ひどく冷たくて不愉快で瞼を閉じてもなかなか眠れなかった。

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いつの間にか寝ていたらしく、障子の外が薄く蒼に染まっていた。
夜明け前、昨日の雨が嘘のように空には雲の一つもなく、山の際が少しずつ明るくなっていく。いい天気だ。
しかし、鳥の息づかいさえも聞こえるのではないかと思ってしまうほど、不自然なくらいに学園内は静まっていた。
違和感を感じながらも井戸へ顔を洗いにいくと六年の善法寺先輩がいらっしゃるのが見えた。
おはようございますと声をかければ、真っ赤に泣き腫らした瞳がこちらをとらえる。



「何か、あったんですか」

「……助けてあげれなかったんだ」

その言葉だけでああ、昨日へまをしたくのたまは死んだのだということを悟った。
それでか、やたら学園が静けさに包まれていたのは。
人が死んだというのに自分でも驚くほど思考は冷めていた。哀しくない、というわけではない。ただ、身の回りの人間が死んだということに対していまいち実感が掴めていないだけなんだ。

「誰が……死んだのですか」

「……、」





震える善法寺先輩の声が紡いだ名前は、昨日、この場所で苦しんでいたアイツのものだった。
まさか、嘘だろう?だって、昨日ここにいたじゃないか。話したじゃないか。息をしていたじゃないか。
生きていたじゃないか。

「嘘だ……」

「敵から逃げる途中、発作がでてしまったらしい。あれだけ、無理は禁物だと言ってたのに……」

いっそ、嘘ならどれだけよかったことか。
そう譫言のように呟く善法寺先輩の目は、哀しみに溺れていた。
考えるより先に動いていた私の足はいつの間にか医務室のまえまで来ていた。中からはくのたまたちの啜り泣く声が聞こえる。
失礼しますと言い返事を待つことなく中へ入れば顔をくしゃくしゃにして泣き崩れているくのたまたちに囲まれ、布団の中で安らかに眠っているアイツがみえた。だがしかし、その口から寝息がもれることはなく、ぴくりともしない。
死んでいる
脳裏をよぎったその言葉に膝から崩れ落ちた。
ゆくゆくは忍になる、それは即ちこういった他人の死を何度も目の当たりにするということだ。
だから、動揺してはいけない。
涙なんか、流してはいけないんだ。
それなのに、なぜこうも熱いものがこみ上げてくる?

「鉢屋……」

泣きつかれ乾いた声で私の名を呼ぶ声がするほうを見ると、アイツと同室らしきくのたまがこちらに歩んできて何かを渡してきた。

「文……?」

「あの子が…なまえがアンタに宛てたもんよ」

そっと丁寧に畳まれたそれを開けば、紫紺の髪紐が現れる。

『借りてた髪紐、なかなか返せなくてごめんなさい。鉢屋くんを見ると緊張して話せなくなるので、こうした形で返します。直接じゃなくてすみません。ありがとうございました。』

綺麗な筆跡で綴られた文字はどこまでも謙虚で、アイツの人柄がよく表れていた。そういえば、この学園に入りたてのころ、誰かに髪紐を貸してやったことがある。今の今まで、すっかり忘れていた。あれは、お前だったのか。

「全くだよ」

直接、手渡しすればよかったものを。
目が合うとたちまち顔を赤らめ慌てて顔をそらした仕草、うわずった声でされた挨拶、

なんて愛おしかったんだろうか。なんて奥ゆかしく、慎ましやかな、いい女だったんだろうか。
思い返せば、後悔ばかりがうまれる。
昨日だって、苦しそうにするアイツが楽になるまで背中をさすってやればよかった。もっと優しい言葉をかけてやればよかった。ただの一度でもいいから、アイツに触れればよかった。
東の空にのぼった太陽の光が葉の上に溜まった雨水で反射し、きらきらと辺り一面を輝かす。こんなに世界は美しいのに、もうアイツには会うことが出来ない。

「……なまえ」

初めて呼んだなまえの名前。
当たり前だが、返事はなく、そのことがひどく虚しく思えた。





在りての厭い、亡くての偲び

(彼女の全てのなんと愛おしかったことか)