=先王の後宮にて=
人気のない中庭で、女は泣いていた。「ハレムに育つ植物は、女の涙を糧とする」との戯れ歌がひと昔前に流行ったが、あながち間違いではない。ハレムの女たちは好むと好まざるとにかかわらず、よく泣いた。本音を表すのにも嘘を紡ぐのにも、または沈殿した感情をせめて吐き出すのにも、泣くという行為はふさわしいものだ。ただ、涙を流す理由は外の世界では数多あろうが、ここハレムでは一つである。否、一つしか許されないのだ。喜びも哀しみも快楽も涙も、ここでは全て王のためのものなのだから。
「……っ」
しかし、"太陽"の訪わない彼女の灰色の世界は、唐突に終わりを告げた。生気溢れた"少年たち"の話し声が聞こえてきたからだ。望む光以外は要らぬとばかり、慌てて場を去った女の肩は、大層細かった。
彼の太刀筋は、その性根と似て直ぐなる軌道をとることが多い。それに、次に踏み込むところをちらと見る癖があった。練習ならばよいが、戦場においては致命的ともなり得る悪癖であるので師範にも注意されていたのが、性格だろう、なかなか直らないのだ。少年は、彼の全ての動きを見切った上で、最も最良と思われた動作をほぼ直感的に選んだのだった。
自分の木刀を弾き、猫の如き身のこなしで背後に跳躍する腹心を、王子は忌々しげに見遣る。喉の奥から絞り出した悔しさは、小さな唸り声にしかならない。いかに腹心の耳がよいとはいっても、聞こえるはずもない。
「今日は、もうやめだ」
「はい、"王子"」
「おい、誰もいねェぞキラー」
「……ああ、悪い。"キッド"」
互いの木刀を腰に差し、試技の終わりを意味する形ばかりの握手をしてから、2人はそろって中庭に寝転がった。広大な宮殿の、奥まった場所にある此の庭は人が来ることが少ない。よって、ここ最近は専ら、彼ら2人にとって恰好の剣技練習場として使用されている。
「あー、次は"政治"か。かったりィ」
「違いない」
「ずっと剣の授業なら、いいのによ」
「違いない」
こうして折々に愚痴はこぼしても、キラーはキッドが王子という立場を大事に考えていることを知っていた。たまにはサボって宮殿を抜け出すこともあったが、大体の場合、授業は真面目に受けている。彼が弱音らしきものを見せられる者は、ごく少数しかいないことを心得ているからこそ、キラーは、いつだって彼の発言を是とするのだった。同じセリフが大概であるのは、決して適当に相槌を打っているからではない。念のため。
「キッド王子様、キラー」
「ラーレ」
「ラーレ様」
酷暑に喉を潤してくれる水に似た、清らかな声が届いたと同時、彼らは勢いよく起き上がる。銀盆を持ってやって来たのは、第一王子の乳母ラーレであった。典雅な仕草で膝を折り、何故か畏まって座っている2人の側の小さなベンチに、盆を置く。
「お疲れでしょう。よろしかったら、お菓子と飲み物をどうぞ。先ほど、私が焼きましたのよ」
「!」
キッドとキラーは顔を見合わせる。通常ならば他の王子の乳母から物を貰う場合、真っ先に懸念しなければならないのは「毒」という一単語のみであろうが、彼女に関しては、そのような物騒な単語など出てくるはずもないのだ。それほどに、彼らはこの乳母を慕っていた。ラーレもよく心得ているのか、早くに親を亡くしたキッドを何くれとなく構っている。(キッドの乳母に失礼にならぬ程度にだが) 折々に菓子を焼いては振る舞い、時には物語を読んで聞かせたりもしている。それは無論、第一王子の世話をする合間のことではあるのだが、彼ら2人には心休まるひと時であるのだ。
「ふん、その歳にもなってチャンバラごっこか」
「ロー様。ロー様もいかがですか?」
ふいに飛び込んできた意地の悪い声に、2人は皿に伸ばした手を止めた。彼女の視線を追うと、中庭に臨む窓からこちらを窺う第一王子の姿がある。2人がここで剣技の修練を行っていると、茶々を入れてくるのはいつものことなのだ。
「要らん。これから"地理"の時間だ。後で持ってこい、俺の部屋にな」
「ええ。出来立てをお持ちしますわね」
「ふん」
第一王子の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、ラーレは2人に向き直り、少し哀しげな顔をする。「本心ではありませんのよ。お許しくださいね」と優しく補足し、少しの塩を足した砂糖水を振る舞うのだった。子供とはいえ、そんな事は"とうに"分かっている2人は、別段第一王子の態度など気にしてもいないのだが、ラーレに悪いので、一応首肯してみせる。
「さ、お召し上がりくださいな」
「いただきます!」
元気に決まり文句を叫び、菓子を平らげていく2人を、ラーレは微笑みつつ見守っていた。そこいらの料理人よりも断然美味しいと評判の彼女の菓子は、子供たちを夢中にさせる。音もなく近づいてくる人物には気付けなくなるほどに。
「あらあら、そのようにお急ぎにならなくても、お菓子は逃げませんよ」
「いやぁ、逃げるぞ。ほら、"こうやって"」
「……!」
後ろから伸びてきた手が、焼き菓子を一つ摘まみ上げたのに、ラーレは驚いて振り返る。きつい陽光を遮るべく日傘を差しかけつつ笑いかけてきたのは、この宮殿で誰よりも崇められる存在、つまり現王だった。なお、突然の来訪に驚いているのはラーレだけではない。キッドとキラーの2人など膝をついたはいいが、驚いたあまり菓子を胸に詰まらせ、水を一気飲みした挙句に胸をどんどんと叩いている。焼き菓子が、詰まったのだろう。
「王」
「一つ、貰っていいか?」
大きな手の中では、焼き菓子が一層小さく見える。誰の許可も得ず、何をも簡単に手中に収めることのできる王がわざわざ尋ねる姿を見て、少年たちは盛大にむせた。ラーレは咳き込む音に我に返ったのか、膝をつき頭を垂れた姿勢のまま「どうぞ」とか細い声で返事をするばかり。
「ん! ありがとな」
だが現王は焼き菓子を摘まんだまま、来たときと同じく唐突に歩き去っていく。食べようとはしない。背後から投げられる疑問の空気に気付いたのだろう、王は歩みを止めた。
「……"後で食う"」
まだ咳が止まらぬ少年たちには聞こえぬ囁きに、ラーレは独り、身を震わせたのだった。体の芯に灯った何かは、きっと、熱すぎる砂漠の陽のせいなのだろうと思いながら。
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「先王の後宮にて」(written by まり緒)