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父の顔は、もう2週間は見ていないだろうか。

彼が、ただこの事実のみを述べるなら家族仲が悪いととられても仕方ないが、親子の仲は至って良好である。彼の父は経営者という立場上、大変に忙しい人間であり、加えて多趣味であるため、年に家に居る日を数えたほうが早いのだ。今回の欧州行きでは、仕事を終えた後に伝統あるクラブでゴルフをするのを楽しみにしていると、出立前に届いたメールには書かれてあった。経営者がいい意味で忙しいのは結構なことだと彼は納得している。もう子供ではないのだ。そう、もう彼は大学生なのだが。

「"ローくん"、おかえりなさい!」
「……っ」

帰宅後、「彼女」に見つからぬうちに自室に戻ろうとしていたローを呼び止めたのは、澄んだ優しい声。数秒間、体を硬直させてから、諦めたのであろう彼は眉間に縦皺をこしらえつつ振り向いた。視線の先には、こなれたエプロン姿の、笑顔の女性が一人。

「あのね、今日のお夕飯はね」
「要らねぇ」

柔らかい束縛を断ち切る彼の言の刃は、冷たく、そして鋭い。

「ローくん、オムライス好きでしょ? だからね、すごく美味しい卵を」

"ローくん"の態度には慣れているのか全く怯まず、微笑すら浮かべたまま会話を続けようとする"彼女"を尻目に彼は去り、部屋の扉を勢いよく閉じた。その事に別段負の感情を表さず、女性は扉をノックする。

「いつでも、作るから。おなかすいたら、言ってね」

部屋からの反応は、無い。





彼が、今年に入ってダメにした枕は7つ。おおよそ、ひと月に1個のペースである。原因は、彼のフラストレーションが大概において自室の枕に向かうこと。なぜ枕にというならば答えは単純で、壁や柱などを殴ってしまっては、その音で彼女に要らぬ心配をかけてしまうからだ。

それはさておき、今日も今日とて彼の拳は枕に向かう。高価な羽根枕の縫い目から既にちらほらと白いものが出始めているのは見て見ぬふりで、彼は思い切り枕を殴った。その頬は赤い。

「くそっ……」

目を閉じずにいても、先ほどの彼女のエプロン姿が幻影となって眼前に現れてきそうで、必死に首を振る。

彼と数歳しか変わらぬ彼女、セシルが"義母"となってから1年。はじめまして、と微笑まれたときから、彼は彼女の前では笑えなくなった。その理由を知ったのは何時からだったか。こうして物や何かに当たっている時だけは葛藤を忘れることができた。一見反抗期の義理の息子が、無愛想な態度をとってしまう理由など、無論セシルは知るよしもない。以前ローの宜しくない態度に気付いた父が、それとなく彼女を心配しても、「ローくんは、とってもいい子です」と真顔で反論したあたり、ゆっくり絆を育んでいけばいいと心から思っているに違いない。実際、彼女はどこまでも優しい性質であるのだ。

「……可愛すぎだろ」

幾つの告白を、このベッドは聞いたのだろうか。枕を抱き締めながら彼が呟いた声は、紺色のシーツに吸い込まれては消えていった。





やり場のない体内の熱、あからさまに言うなれば劣情的なものは、捌け口がありさえすれば容易く放出できる。最近悶々としていることが多かった彼は、とある女からのメールで欲の放出先には事欠かないことを思い出した。そして存分に吐き出して現在に至る。携帯には「茶髪ロング。顔6点。体7点」としか登録していない女であるが、性欲の排泄対象としてならば、なかなかの身体なのだ。余談だが、彼の女に対する評価は「10点」が満点だ。

どことなく爽やかな顔で、ローは玄関をくぐった。この時間なら彼女は寝ているはずだと、少々油断して扉を開けたと同時、目に飛び込んできた光景に彼は硬直することになる。

「あっ、ローくん、おかえりなさい」

風呂上がりだろう仄かに上気した頬で笑うセシルが、そこに居た。もともと血色のよい唇は更に色を増し、果実に似た甘さを宿している。どちらかと言えば垢抜けないパジャマ姿で、決して扇情的な服装などしていないはずの彼女に、静めたはずの己の血が奥底から沸騰し始めたのを彼は確かに感じた。

「ごはんは食べたのかな?」
「あ、ああ」
「……そう」

沸点を迎えそうになった脳は、彼女の寂しげな表情に簡単に冷えていく。そして、照れているような困っているような表情でセシルが続けた言葉は、彼を更に冷ましていった。

「あのね、ごめんね」
「え?」
「"お母さん"みたいに、お料理上手じゃなくて、ごめんね」

セシルの謝罪に対して、彼は反応できなかった。口を開こうはするが、まともに話したことなど数えるほどしかないのだ。どうしたらいいかなど判るわけもない。しかしセシルが「おやすみなさい」と踵を返したとき、無造作に纏め上げられた髪の毛からわずかに覗く白い肌に、彼は気付けば手を伸ばしていたのだった。彼女の肌は温かく、彼の指に吸い付いて、離れない。

「……?」

うなじに感じた温度に、彼女が振り返る。滑稽なほど跳ねようとする自らの肩を何とか理性で押さえつけ、ローは口を開いた。唇はかさつき、まともな言い訳など浮かびもしないのだが。

「髪の、毛。髪の毛、付いてた」
「そう、ありがとう」
「……セシル、さん」

彼は、"おかあさん"ではなく、セシルの名前を呼んだ。だが彼女は初めて名前を呼ばれたことに驚いているのか、内包された違和感には気付かないまま、じっとローの次の言葉を待っている。

「明日の、夜は、家で食うから」
「ほんと?」
「ああ」
「嬉しい。ご馳走、作るからね」

血色の良い頬が、微笑んだ。「おやすみなさい」と、どこか弾んだ足取りで去っていくセシルの背中を見送りつつ、ローは薄く唇を開く。動揺も逡巡も、その瞳に映すことなく。

「……おやすみ、セシル」

セシルは、まだ、彼の微笑みを知らない。


The Night before the Revolution(×Law)

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エネル企画イケナイカンケイへ提出
冬子さん、素敵な企画をありがとうございました

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