ハレム企画 過去の物語 | ナノ


=先王シャンクスと乳母ラーレ/前編=


伏せていた目線を、上げる。彼女の、ただそれだけの動作が至極ゆっくりと瞳に映ったのは何故だったろう。

長く密な睫毛にびっしりと縁取られた大きな瞳が、恐れ気もなく、真っ直ぐに彼を捉えた。ひたむきな眼差しながらも、彼女の瞳に威圧的なものは微塵もないのが不思議でしょうがなく、目を合わせていると包み込まれるような錯覚すら彼は覚える。整いすぎて作り物めいた彼女の鼻筋から唇、そして小さな頤に至る精巧なラインの下、華奢な体とは不釣合いなほど膨らんだ腹すら、彼女を諦める理由には全くならなかった。

 ――なぜ彼女は、此処にいるのだろう。

物理的に連れてこさせたのは確かに自分なのだが、彼がそんな幻覚にも似た違和感を感じたのは、彼女から醸し出される空気が遠い西国で見た花畑を思わせたからだ。砂漠の其れとは違う、どこまでも穏やかな陽射しの下でそよ風に揺れていた色とりどりの花々。あの花の名は、確か――。





傍らの天蓋付き寝台に眠る王子は、寝つきこそ悪いものの、一旦寝入ってしまえば朝までぐっすりな良い子である。彼がぐずりながらも眠りに落ちるまで羽根の団扇で優しい風を送り続けていた乳母ラーレは、夜半、窓から涼風が吹き込んできたのを契機に手を止め、自らも王子用寝台の隣に設えられた彼女専用の寝台に横たわった。彼女は一日中、こうして片時も王子から離れない。彼に多大な愛情を感じているのは勿論だが、何より王子から離れることの危険性を知っているからだ。特に彼は今の時点での王位継承者。狙う者など山ほどいる。その点を危惧した王が、王子の過ごす辺りに信頼のおける警護の者たちを幾人も配置しているが、絶対安全というわけではない。彼女は自分が食べる物すら自分でこしらえる徹底ぶりを貫いていた。王子が彼女の乳を完全に卒業するころには、きっと彼の食事すら手ずから作るのだろう。

夜明けまで少し休んでおこうと、安らかに眠る王子の額に口付け、彼女は自分用の寝台に滑り込んだ。一息、二息。日頃の疲れもあるのだろう、彼女は数十秒とかからぬ間に意識を手放した。

「……?」

ふと気配を感じたのは、おそらく眠りに落ちてから数十分も経っていない頃だと月明かりの傾き加減でラーレは気付いた。王子を守るため用心している彼女に、気配すら気取られずに唇が触れる距離まで近づけるのは、このハレムではただ一人しかいない。未だ覚醒しない頭で、それでもかろうじて悲鳴を息と一緒にのみ込んだラーレは"彼"から逃れるため身をよじろうとするが、両の手首を掴まれているため、それは不可能だった。

「ラーレ」

月光に透ける髪は鮮やかな赤。低く優しい声音に絆されることなく惑った目線を投げれば、彼は、より困りきった眼差しで彼女を見詰めてくるのだった。身分も何もかも彼女より上のはずなのに、ただひたすらに慈悲を乞う男の瞳が、彼女の心、特に"罪悪感"と呼べる感情を煽る。

「……っ」
「ラーレ」

繰り返し呼ばれる花の名は懇願を含んでいることに彼女が気付かないわけもない。手首を捉えていたはずの彼の大きな手が、ゆっくりと上っていき、細い指を絡めとる。2つの手が重なったと同時に、びくりと一つ震えた彼女の姿に彼はやや安堵の表情を見せた。彼女の表情が、彼の腕の中で上り詰めていくときのものと同じだったからだ。

「お許しを……、"王"!」
「……赦してほしいのは、俺だ」

王と呼ばれた男は、彼女を胸にかき抱く。その腕の力強さにいつか初めて抱き寄せられた時を思い出し、ラーレはどこか困った表情のまま、艶を含み始めた息を吐いた。





周りには誰もいなかった。それは王が人払いをしたためかもしれないし、ただの偶然だったのかもしれなかった。王は子供を見に来た口実で部屋に入ってきたから、ラーレも何の警戒もしていなかった。なにせ王は、ハレムの女たちからはすこぶる評判が良い。だから、彼が自分を後ろから抱き締めたとき心から驚いたのだ。

ただ思い返せば予兆はあった。"我が子"を産んだばかりの頃に見舞いに来てくれた彼が彼女を見るなりしばし絶句し、何だろうと首を傾げていれば、ふいに伸ばされた彼の手に頬を撫でられ、「綺麗だ」と言われたこと。冗談めかして何度も腕を引かれ腰を抱かれ、「うちの王子の乳母程度にゃ勿体ないな」と茶化されたこと。当初は後宮入りを望まれていたのだから多少の戯れはしょうがないと思い、全て流していたのだが――。

声すら出せずに、それでも振り返ろうとすると、王が顔を彼女の肩口に埋めてくる。体を抱く腕は締め付けを増し、なおラーレが驚いたことには彼の手は震えていた。息を懸命に整えている彼の様子が欲情という意味以外のものに思えて、ラーレは彼の言葉を待った。待ってしまった。

「聞いて、くれ」

いつだって飄々とした声すら、微細な振動を帯びている。沈黙が質量を増して2人を押し潰しそうなほど膨らんだ頃、彼はやっと、たったのひと言を絞り出したのだった。

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「先王シャンクスと乳母ラーレ/前編」
 (written by まり緒)
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