キーボードを叩く音だけが響く部室。いつもとは似ても似つかない空気に沙織は手を止めた。 二年生は修学旅行の真っ只中だし、唯一の三年生である田代も塾に行ってしまった。そんなわけで、部室には沙織ひとりきりなのである。いつもは賑やかな部室がしんと静まりかえっているのは、寂しいを通り越してなんだか怖い。たまらなくなって沙織はiPodの中のお気に入りの曲を再生した。大好きな歌手の爽やかな歌声が耳元で流れる。それでも気分はあまり上がらない。 目の前の画面にはファンタジーの世界が広がり、物語の続きが紡がれるのを待っている。何度も何度も書き直したプロット、キャラクターの服装やセリフや仕草、この世界のすべては沙織の脳内で構築されて、いつでもこの先の物語を作り出せる状態のはずだ。それでも、ひとりでキーボードを叩いていると、それらは急に色褪せてしまった。いつもどうやって原稿を書いていたのか忘れてしまって、手が止まった。 (いつもは、ここに来てパソコンを立ち上げたら勝手に手が動いてたのに……) そう考えて、ほんの数日前まで当たり前だった“いつも”の記憶を手繰り寄せ、沙織はふと気付いた。 行き詰まったときはみんなでお菓子を食べ、くだらない話をしたらリフレッシュできた。幸穂や修や田代に書きかけの原稿を読んでもらい、手直しをしてもらった。杏奈や神野が描いてくれた自分のキャラクターのイラストを見たらいつでもモチベーションが上がった。それらがあったからこそ、沙織は自分の頭の中に広がる世界を言葉に変えられていた。 沙織はもう一度画面を眺め、手元のペットボトルに残ったレモンティーを飲み干した。 (先輩たち、早く戻って来やんかな) 続きを書くのは諦めて、沙織はパソコンの電源を切る。荷物をまとめ、部屋の電気を消して戸締まりをする。 鍵を返して校舎を出ると、いつもより明るい空が広がっていた。こんなに早く学校を出るのは久しぶりだ。梅雨時には珍しく青い空の下、いつも仲間たちとおしゃべりしながら歩く道を、沙織はひとりぼっちで歩き出した。 「たっだいまー!」 翌週の月曜日、元気な杏奈の声が部室に戻ってきた。もちろん、幸穂も神野も修も一緒に。 「先輩、おかえりなさい」 「おう、おかえりー。そうや、土産買ってきたか?」 「当たり前じゃないですかぁ。はい、これ部長に」 にこにこ笑いながら幸穂が差し出したのは、北海道のご当地キャラクターのタオル。でかでかとプリントされた特徴的な緑色の丸い顔には沙織も見覚えがある。 「これ? え、マジで?」 「もちろん使ってくれますよね? タオルやから部長も使えると思って買ったんです。あ、ちなみにそれ、あたしが選んだんですよ」 「あざっす! 使わせていただきます!」 幸穂の迫力に負けた田代を見て笑いながら、杏奈が沙織にも包みを手渡す。 「はい、これはさおりんの分。部長みたいなネタプレゼントとちゃうから安心してな」 「あ、ありがとうございます!」 中から出てきたのはシロクマのぬいぐるみだった。ふわふわした手触りが心地よくて、思わず笑みがこぼれる。 「かわいい……!」 「おい、ずるいぞ沙織だけ」 「あれっ、部長もしかしてあたしのお土産に文句でもあるんですか?」 「ないないない! 全っ然ないから!」 「ですよねー!」 「あのなぁさおりん、それ神野セレクトなんやで」 「え、神野先輩センスいいー! ありがとうございます、嬉しいです!」 「……いや、そんなこと……」 「まあ修のおごりやけどな」 「ちょ、なんで俺のおごりになってんねん。あとで割り勘するからな」 「えー、修のケチー」 「どっちがや!」 ぎゃあぎゃあと言い争いを始めた修と杏奈をよそに、神野がさりげなく北海道の有名ブランドのお菓子の詰め合わせを開ける。幸穂と田代も手を伸ばし、沙織は慌ててそれぞれの湯呑みに緑茶を注いだ。 「ありがとうな、沙織ちゃん。沙織ちゃんも一緒に食べよ」 「あ、はい、いただきます!」 こうしてみんなでお菓子をつまんでいると、平凡な日常が戻ってきたのがひしひしと感じられる。平凡でも、とても大切で楽しい時間。 「あー! みんなお菓子食べとるやん、ずるい!」 「金出したん俺なんやから俺にも食べさして!」 「しょーがないなー」 輪の中に入ってきた二人も交え、旅行の思い出話を楽しく聴きながら、沙織はふと考えた。今日の帰りは遅くなるかもしれないな、と。 © 2011-2017 Hotori Aoba All Rights Received. -- ad -- |