「どうぞ」 こつり、と微かな音を立てて、白いマグカップが僕の前に置かれた。コーヒーの香りがゆったりと漂ってくる。この香りが、僕は好きだ。 お揃いのカップを両手で包んで、翔子が僕の隣に座る。ありがとう、と小さくお礼を言うと、翔子はにこにこと頷いた。 僕の恋人の名は翔子という。そして僕の前の恋人の名は祥子――字面は違うが、同じ“ショウコ”だった。ただの偶然だ。けれど、偶然とは思えないくらい、翔子と祥子は似ている。たとえば背が低いところ。たとえばモンブランが好きなところ。笑顔のかわいいところも、すぐに拗ねるところも、頭を撫でてやると喜ぶところも、同じだった。それから、翔子も祥子もコーヒーを淹れるのがうまい。 一口すすると独特の苦味が口の中に広がる。苦くて癖もあるけれど、優しい味だ。 「おいしい?」 「うん。やっぱり翔子のコーヒーはいいな」 「ほんと? 嬉しい!」 本当は、僕は祥子の淹れるコーヒーの味が今でもいちばん好きだ。そう考えるたび、ごめん、と心の中で翔子に謝る。翔子のことは大好きだ。結婚だって考えている。でも、僕にとって最高のコーヒーを淹れるのは、やはり祥子だ。 「翔子」 「なに?」 「……やっぱりいいや」 「なにそれ」 おかしそうに翔子が笑う。祥子とは顔立ちが違うけれど、その笑顔はやはり祥子にどこか似ていた。 祥子と翔子。僕が本当に愛しているのは、どちらなのだろう。 翔子を見るたび、その姿に祥子を重ねてしまう。コーヒーの味も比べてしまう。共通点を見つけて嬉しくなる。祥子はもういないのに、彼女がまだ隣にいる気がして。 『ごめんね。もうだめなの』 『……なんで』 『わたしじゃたっくんには似合わない。だから、ごめん、別れよう』 『そんなの関係ないだろ。僕は祥子が好きなんだから、それでいいんだよ』 『ごめん。限界なの。他の女の子たちに、あんたじゃたっくんには似合わないって言われるたびに、つらくて仕方なかった』 『そんなの気にするなよ。他の女子なんか関係ないし、僕は祥子じゃないと無理だ』 『わかってるけど、それでも気になるの。お願い、終わりにさせて。もう疲れちゃったの』 高校二年生のとき、僕は一年ほど付き合っていた祥子と別れた。その会話からしばらくは僕も粘ったけれど、明らかに疲れ、やつれていく祥子を見ていられなくなったのだ。 当時、僕はクラスでもかなり目立つ方に属する男子だった。髪をワックスで逆立てたり、制服を崩して着たり、いろいろとやんちゃをしていた。対照的に祥子は地味でおとなしく、ひっそりと隅っこに隠れるようにして暮らしていた。 そんな僕たちが付き合い始めたときはかなり周りに理由やら馴れ初めやらを尋ねられたし、僕が派手だったために、同じく派手な女子から祥子への風当たりは厳しかった。 『なんであんたなんかが拓弥と付き合ってんの?』 『全然似合わない』 『早く別れなよ』 そんな言葉を投げつけられるたびに祥子は泣いて、僕は僕の見えないところで祥子に叩きつけられる陰口をどうすることもできず、ただ祥子を慰めることしかできなかった。 祥子と別れ大学に入ってから、僕は目立たないよう気をつけるようになった。ワックスをつけるのはやめたし、私服も地味なものにした。高校の頃のように女子にカッコイイと騒がれることはなくなったけれど、それでよかった。祥子を傷つけ続けたあの女子たちのような奴らにちやほやされることなんて望んでいなかった。そして僕は翔子に出会い、付き合い始めた。祥子とはもう連絡が取れなくなっていた。 「拓弥?」 「……ああ、ごめん」 ふと回想から引き戻され、翔子に微笑みかける。マグカップを手に取ると、コーヒーはもう冷めていた。 僕らが終わりを迎えたあの日、僕は祥子が去ってからもしばらく呆然としていて、祥子が淹れてくれたコーヒーにようやく口をつけたのはすっかり冷たくなってしまった頃だった。もっと早くに飲んでいれば彼女の最後のコーヒーを味わうことができたのだろう。きっといつもと変わらない優しい味だったはずだ。でも、放置しすぎたコーヒーは、もうその元々の風味を失っていた。 大好きだった祥子のコーヒー。その最後の一杯を無駄にしてしまったことを、他人から見たらくだらないことかもしれないが、僕は後悔している。あのコーヒーの香りは今も鮮明に蘇ってくるけれど、祥子のコーヒーはもう二度と飲めないのだ。 「翔子」 僕はもう一度翔子に呼びかけた。なあに、と翔子が首を傾げる。 「明日、行くところがあるんだ。だから、悪いけど明日は会えないと思う」 「わかった。大丈夫、気にしないで」 「ありがとう」 明日は僕と祥子が出会ったあの町へ行こう。電車に乗って、バスを乗り継いで。それから、よく祥子と行った、あの喫茶店でコーヒーを飲もう。それが全部終わったら、花屋で花を買って目的地へ向かおう。――祥子の眠る墓地に。 明日は、祥子の二周忌だ。 ゆめがたりに提出 from 夏川 蛍 お題「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」 © 2011-2017 Hotori Aoba All Rights Received. -- ad -- |