「部長、これ」
「一問百円」
「……部長のケチ!」

 沙織が部室に入った瞬間、そんな会話が耳に飛び込んできた。声の主は二年の杏奈、そして部長を務める三年の田代である。

「何やってるんですか、杏先輩と部長」

 賃下げ交渉を始めた杏奈と頑として譲らない田代を横目に、沙織はそばにいた修に話しかけた。湯呑みに冷たい緑茶を注ぎ、飲み干した修が答える。

「杏が数学教えてほしいって部長にねだっとってさ、さっきから。でも部長はケチやから」
「ほんとですね……」

 呆れ声で沙織が応じた。普段は二人とも頼りになる先輩なのだが、ときどきそんなイメージは崩れ落ちる。ただ、彼らの創った作品を見れば、その尊敬もまたたやすく元通りになるのだが。

 がらり、とドアが開き、また一人部員が入ってきた。

「みんなー、今度の新刊の原稿できとるー?」
「はーい、できてまーす! すごいやろ姫、うち今回は締め切り前に終わったんやで!」

 赤縁の眼鏡が似合う『姫』こと幸穂は「えっ」と驚いたように杏奈を見て、それから微笑みながら彼女の頭を撫でた。

「やればできるやん、杏も。偉い偉い」
「やろ? うち、今回は頑張ったんやから!」
「姫先輩、私も終わりましたよ」
「沙織ちゃんも偉い! なでなでしたろっ」
「やったー!」
「なんやねん、あれ……」

 男子組は女子組のテンションに着いていけないらしい。自然と、修と田代は一ヶ所に──先程から会話に参加せず、黙々と漫画を描いていたもう一人の部員、神野の元に集まる。

「で、部長はどうなんですか? あと、修の原稿ももらってないんやけど」

 水を向けられ、田代たちはびくっと肩をすくめて幸穂を拝んだ。

「ごめん姫! 明日までにはやるから許して!」
「俺も! すみません姫様……!」
「……二人とも、確か先月の『新入生歓迎号』も原稿遅れとったよなぁ?」
「次は! 次は必ず締め切り守りますから!」
「まったく、毎回そんなこと言って……絶対やで? あ、あと明日までにできやんかったら駅前のケーキ屋さんのガトーショコラ奢ってな」

 幸穂がさらっと口にしたその言葉に、沙織は驚いて杏奈を見た。

「……杏先輩、『駅前のケーキ屋さんのガトーショコラ』って、もしかしてあれですか」
「うん、一個六百円のやつ。しかも一日限定三十個で、開店前から並ばなあかんらしいで」
「へえ……私も食べたいなぁ」
「うん、うちも」
「……僕も食べたい」
「うわっ、びっくりしたー! 神野聞いとったん!?」

 それを聞きつけたのか、幸穂はにっこりと笑った。『姫』のニックネームにふさわしい、思わず見とれそうになる綺麗な笑顔。しかし今この瞬間、田代と修にとってそれは悪魔の微笑みだった。

「四つ買うなら、開店三時間前に行ったらいいと思うで。それならたぶん一番やし」
「マジかよ……!」

 同時に呻いた田代と修が、慌ててパソコンに向かいタイピングを始める。

「姫先輩、ガトーショコラ楽しみですね」
「ほんまやなぁ、沙織ちゃん」
「奢らんからな! 絶対完成させたるからな!」

 そう言い切った田代だけが結局原稿を終わらせられず、一人で修も含めた五人分のガトーショコラを買い込む羽目になったのは、また別の話である。




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