これの続き



 あの人はあたしの目の前で優しく微笑んで愛してると囁くの。あたしも愛してると囁き返すけど、あの人は気付かない。知らぬ間に長く伸びていた、おとぎばなしの中の悪い魔女みたいにとんがった人差し指の爪で、こつりと液晶の壁を叩いてみる。ハンマーを持ってきて、がつんと叩いてやったら、学校で習ったベルリンの壁みたいに、この壁も壊れるのかな。ほんとうに壊れてしまえばいいのに、あの人とあたしを邪魔するこんな壁。

 あたしにはあの人が必要なの。あの人は優しい人だからあたしを嫌いだなんて言わない。死ねだとか、キモチワルイだとか、あたしを傷つける言葉なんて一言も口にしない。いつも笑ってて、でも時々、あたしの前だけではちょっぴり泣いて。そんなあの人が愛しいって言ったら、あの人はなんて言うかしら。ねえ、なんて言うの? 教えてよ、あたしに。愛してるなんて、何度でも言うから。だからほら、こっちに来て。それともあたしがそっちに行けばいい?

 右手が急に重くなって、なんだろう、と思う間もなく振り上げられていた。あれ、あたし、何してるんだろう。

「駄目だろ未佳、こんなことしたら」
「……大ちゃん」

 あたしの右手を押さえて、振りかぶった重たい辞書をそっととりあげる。そっか、あたしは壁を壊そうとしてたんだ。でも、どうしてあたしを止めるの?

「大ちゃん、どうして止めるの」
「わかってるだろ。壊したら、未佳はあいつに会えなくなるんだよ」
「違う……この壁を壊したら、会えるの。会いたい、あの人に」
「未佳、駄目だ。絶対、会えないよ」

 なんで、なんで邪魔するの、大ちゃん。ベルリンの壁が壊れたとき、あっちとこっちに別れてた人は出会えたでしょう。だったらあたしもあの人に会えるじゃない。

「あたし、向こうに行きたい」
「うん。知ってる。だけど、まだ行けないよ」
「会いたい、のに」
「駄目だって」
「行きたいよ、大ちゃん、離して」
「未佳。」

 大ちゃんが、ゆっくりとあたしを呼ぶ。小さい頃からずっと変わらない呼び方。あたしが泣いてるとき、大ちゃんはいつだって、こうして優しく名前を呼んで頭を撫でてくれた。お互い大きくなった今は、もう頭を撫でてもらうことはないけれど。でも、大ちゃんはまだ、あたしの手首を掴んだままだ。

「たとえ向こうに行けたとしても、行かないでほしいんだ。僕が」
「……いや」
「僕は、未佳にこっち側にいてほしい」
「大ちゃん、やめて」
「未佳」
「やめて……っ!」

 大ちゃん、大ちゃんのこと、あたしなんにもわからないよ。大ちゃんはいつだって、あたしのわがままを聞いてくれたのに。大ちゃんの分のおやつも欲しいだとか、かくれんぼじゃなくておままごとをしたいだとか、そんなどうだっていいお願いは聞いてくれたのに、どうして? どうして、あたしがほんとうに望むものは許してくれないの?

「未佳」

 大ちゃんがあたしの名前を呼ぶその声が、急に憎らしくなって。

「離してッ!」

 自分の声がやけに甲高く聞こえた。大ちゃんはゆっくりとあたしの手首を解放する。手首に感じていた温もりが、一瞬で冷めた。

 モニタの向こうを眺める。あたしの愛しい彼は、微笑みを浮かべて固まったまま。壁は、まだ壊れていない。大ちゃんとの間の壁も、あたしはまだ壊せないまま。それどころか、きっとあたし自身がレンガを積み上げているのだ。透明の、冷たい氷の壁が、見えた。




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