「お、三芳。居残りか」
「……木崎先生」

 ひとりきりの放課後の教室。宿題になっている数学の問題集を解いていたら、木崎先生に声をかけられた。木崎先生は私の数学の授業を担当してくれる、若くて優しくて教え方も上手い男のひと。そう言えば、彼が女子生徒達に大人気なのは明白だろう。

「そうだ、先生。今聞きに行こうと思ってたんですけど、この問題教えてください」
「ん、どんな?」

 木崎先生は教室に入ってきて、私の前の席の椅子をくるりと反対向きにして座る。私も問題集を先生が見やすいように百八十度回転させて、シャープペンの先でその問題を指した。

「……よし。まず、こことここの間に一つ解があるということは……」

 私の差し出したシャープペンを握った先生は淀みない説明を始める。数学の苦手な私がどれだけ考えてもわからなかったこれをいとも簡単に解いてしまうなんて、さすが木崎先生。先生のシャープペンを持った指先はまるで魔法のように謎を解いてゆく。ルーズリーフにいくつも書き上げられる綺麗な放物線。少し雑な走り書きの文字。

 やっぱり好きだなあ、と思う。そんなこと、とても言えないけど。

「……で、答えはこうなる。わかったか?」
「はい!」

 即答したのは、お世辞じゃなくて事実。ありがとうございましたと頭を下げれば、先生が頷いて微笑む。

「じゃあ、もう行くから。またいつでも教えるからな」
「はい。ありがとうございます」

 木崎先生が立ち上がり、椅子を元通りにしまう。ちょっと残念、なんて。

 と、木崎先生がふいに私の机に置いておいた文庫本を手に取った。

「へえ、三芳は漱石読むのか。懐かしいな、『こころ』」
「面白かったですよ、それ」
「ふーん。高校のとき現代文でやったけど、あんま面白いとか思わなかったな。すごいな、一年生でこんなの読めるなんて」
「や、そんなこと……」

 褒められたのが嬉しくて、緩んだ頬を隠すために俯く。頭上から先生の低い声が降ってきた。

「夏目漱石って言えばさ。アイラブユーを訳したんだよな、確か」
「『月が綺麗ですね』ってやつですか」
「それそれ。なんかさ、なんでそんな訳になるんだとか思わないか? 俺、初めて聞いたときから不思議だったんだけど」
「あ、それ私も思いました。日本人なら誰でもわかる、って言ってたらしいですけどね」
「わかんないよな、普通」
「ですよね」

 相槌を打ちつつ聞いていると、先生が腕時計をちらりと見た。その仕草に、思わず心の底に溜まっていた言葉を口にする。

「先生、……もう行くんでしょう?」
「うん、忘れるところだった。じゃあな、頑張れよ」
「はい」

 白いワイシャツの背中が離れていき、やがて見えなくなる。かけてもらった言葉を反芻しながら、私はアイラブユーの話をぼんやりと考えた。漱石は月が綺麗ですねと訳した。じゃあ、私だったら?

 しばらく考えて、問題集の隅っこに、シャープペンで薄く書いてみた。

“数学なら、嫌いでも頑張れる”






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