次の日、理恵は学校に来なかった。休み時間にメールを送って大丈夫かと尋ねてみると、『ちょっと学校に行くのがきつくて』とだけ返事が返ってきた。大したことはないから平気だ、とも。

「……絶対俺のせいだろ……」

 いつもの廊下の隅の窓際に裕也を呼び出しそのメールを見せてみると、裕也はそうつぶやいて頭を抱えてしまった。

「追い打ちかけるみたいで悪いけど、正直それはあると思う」
「だよなあ……」
「まあ、吉岡だけじゃなくて、最近の諸々のことで思い詰めちゃったんだろうけどね」
「いや、でもとどめ刺したのは俺だし……」
「うーん、まあねえ……」

 こじれるとやっかいなので裕也をまたネガティブ思考に陥らせるのは避けたいところだったが、うまいフォローのしかたが見つからない。裕也の最後の一言は理恵にとってきっと相当ショックだったはずだ。あの忍耐強い性格の理恵が耐え切れずに先に帰ってしまう程度には。

「吉岡は理恵にメールしたの?」
「いや……昨日ごめんってメールしたんだけど返ってこなくて、怖くてもうメールできない」
「……気持ちはわかるけどさ、メールくらいしてあげなよ……心配してもらえてないんだとか思い込んでますますきつくなっちゃうかもよ?」
「そうだよなあ……」
「昨日あれだけ言ったじゃない、ちゃんと言わなきゃ伝わらないって」

 昨日思わずお説教をしてしまったのはもしかしたらお節介だったかもしれないが、言ったことはきっと間違っていないはずだ。

 いくらなんの進展も見られなくても、理恵と裕也が満足ならそれでいいと思っていた。早く手を繋げばいいのにだとかデートすればいいのにだとか、そういうことも思ってはいたが、結局そんなものは二人のペースでやっていけばいいことなのだ、進展らしいものがなくてもいいカップルだということには変わりないからそれでいい、本心ではいつもそう考えていた。

 それでも、言わなければいけないことはきっとある。理恵は忍耐強いし一途だし裕也の性格に理解もあるが、どんなにささやかな愛情表現も一切ないまま四ヶ月と少しを過ごしていたら、不安になっても仕方がないだろう。そんなときに自分のことを好きだと言ってくれる男が他に現れて、当の恋人が引き止めることすらしてくれなかったら、どれだけ心細いだろうか。

「……メール、してみる。返ってこなくてもいいから、とりあえず送るだけ送ってみる」
「え、」

 まさか裕也がそんなことを言うだなんて考えてもいなかった。思わず声を上げて裕也の顔を凝視すると、それに気づいたのか苦笑される。

「そんなに驚かなくても……」
「や、ごめん、ちょっと……見直した」
「この程度で見直されるとか、どんな風に見えてたんだよ、俺は」
「まあまあ、そこは置いといてさ。じゃあ――頑張って?」
「おう」

 頑張っては少し変か、と思ったが、裕也の返事は思いのほか素直だった。




 放課後まで待ったが、結局裕也のメールに返信はなかったらしい。裕也はさぞかし落ち込んでいるだろうと思ったが、きついけどなんとかくじけずに頑張る、と少し笑ってすらいた。もしかしたら空元気だったのかもしれないが、いつものようにうじうじと愚痴を言うよりはずっとよかった。

 部活の練習を済ませて、今日は一人で帰路につく。普段はたいていどちらか片方だけ部活があるときも時間を合わせて理恵と一緒に帰っていたし、ここのところは裕也や隆彦も交えて帰ることが多かったので、一人で帰るなんてそれほど珍しくもないことなのにやけに寂しく感じられる。気晴らしに音楽でも聴こうとイヤホンを耳に差し、ついでに携帯電話をチェックするとメールが届いていた。理恵からだ。

『部活終わってからでいいから、うち来れない?』

(……え、)

 驚いた。あまりに驚いていったん立ち止まってしまったほどだ。理恵はかなり遠慮がちなタイプで、他人に何かをしてほしいと頼むことはほとんどしない。そんな理恵が自分の家に来てほしいと言うだなんて、よほど深刻な事態に陥っているとしか考えられない。彩乃は焦って電話帳から理恵の携帯番号を呼び出した。

 プルルルル、プルルルル、と何回か無機質な呼び出し音が響く。しばらく待っているとふいにそれは止まり、代わりに沈黙が訪れた。

「……理恵?」
『……彩乃』
「ごめん。メール、今見た。――どうしたの?」
『……彩乃と話したくて』

 電話の向こうの力のない声に今度は本当に驚きの声が出そうになったが、ぎりぎりのところでこらえた。少しかすれた鼻声であることに気づいて、泣いていたんだ、と嫌でもわかる。できるだけ優しく聞こえるように慎重に、彩乃は話しかけた。

「わかった。今学校出たところだから、最寄り着いたらまた連絡するね。待ってて」




 三浦家のチャイムを鳴らすと、まずは理恵の母親が出迎えてくれた。理恵が休んだ本当の理由は彼女も知らないらしく、なんだか体がだるくて動けないって言ってるのよ、どうしたのかしらねえ、などと言う。少し立ち話をしてから二階に上がり、理恵の部屋のドアをノックすると、どうぞ、とやはりかすれた声が彩乃を迎えた。

「お邪魔します」

 挨拶をしてドアを開けると、理恵が部屋着に近いラフな格好でベッドに腰かけていた。目が赤い。やはり泣いていたのだろう。

「理恵……大丈夫?」
「……あんまり、大丈夫じゃないかも」

 弱々しく、困ったような理恵の微笑みに心が痛む。鞄を床に置き、彩乃も理恵の隣に腰を下ろした。言葉が見つからずにしばらく黙っていると、理恵の方が先に口を開いた。

「吉岡から、話、聞いた?」
「……聞いた。全部」
「そっか」

 そうつぶやいて理恵はひどく寂しそうに顔をゆがめた。たぶん、笑おうとしていたのだろう。それは伝わったが、それでも笑顔にはとても見えないほど悲しそうな表情だった。

「……吉岡さ、」
「うん」
「あたしのこと、……嫌いになったのかなあ」

 そう漏らすなり理恵はぽろぽろと涙をこぼした。すぐに嗚咽が漏れ始め、肩が震え始める。

「あたしは、吉岡のこと、ちゃんと好きなのに。早川に言われたのだって、ちゃんと断るつもりだったのに」
「うん」
「でも、吉岡が、あんなこと言うから……もう、わかんなくなってきて」
「うん」
「なんで、あんなこと言うんだろ、吉岡は」
「うん……ちゃんとあたしがお説教しといたから」

 なだめるようにそう言って、彩乃は隣に座る理恵の背中をゆっくりとなでた。理恵の嗚咽が止まるまで、ずっと。どれくらいそうしていただろうか、しばらく時間が経ってから理恵はようやく顔を上げた。

「ごめんね彩乃……ありがとう、もう大丈夫」
「謝ることないでしょ。よかった、落ち着いて」
「おかげさまで」

 そう言って理恵はかすかに笑った。まだ満面の笑みとまではいかないが、もう先ほどまでの痛々しい笑顔ではない。ほっとして彩乃も笑い返す。と、不意にベッドの上に置かれていた理恵の携帯電話が鳴った。

「……早川だ」

 一気に理恵の表情が曇った。着信を告げて鳴り続ける携帯電話を開きはしたが、通話ボタンを押すことはせずに固まっている。

「出るのきついなら、無視してもいいんじゃない?」

 遠慮がちに声をかけるがしばらく返事はなかった。ひょっとしてパニックになっているのだろうか。見かねて横から携帯電話を奪おうとしたら、大丈夫、と案外しっかりした声がそれに応えた。やや強張った表情ではあるが、深呼吸をし、理恵はそのまま通話ボタンを押す。

「……もしもし」
『もしもし、理恵ちゃん? 大丈夫? 具合悪いの?』

 隆彦の心配したような声が聞こえてきた。スピーカーモードにはしていないのでやや聞き取りづらいが、それでも話している内容はうっすらと聞こえてくる。頑張れ、の意味を込めて、彩乃は理恵の背中にもう一度手を回した。

「ちょっとね……でも今は大丈夫。明日行けるかどうかはまだわかんないけど」
『そっか、よかった。……あのさ、もしかして、休んだのって俺のせい?』
「え、どうして?」
『いや……いくらなんでも、ああいうこと言うにはいきなりすぎたかな、って。理恵ちゃんにストレス感じさせてなかったかなって思って、今日ずっと反省してたんだ』
「……そっか」
『ごめんな。もし今そういうこと考えるのきついんだったら、返事とかは後からでいいから』
「ううん、――今、返事できるよ」

 彩乃は驚いて理恵の横顔を見つめた。裕也に嫌われているのではないか、という理恵の問いかけに、まだ答えられていない。あいつはちゃんと理恵のことが大好きだから安心しなさいと言うつもりで来たのに。もしかして、理恵はもう諦めてしまったのだろうか。焦って理恵のパーカの袖を引くが、理恵は見向きもしなかった。

『……ほんとに? 聞いていいの?』
「うん。あのね、」

 一呼吸おいて理恵は答えを口にした。

「ごめん。早川とは付き合えない」

 ――安堵の念がどっと彩乃を襲った。同時に、あれだけ泣いてたのにどうして、という疑問も少し。どうしてという気持ちは隆彦も同じだったらしく、不思議そうな声が、もしかしたら不満も混じっているかもしれない声が、漏れ聞こえてきた。

『……なんでだめなのか、聞いていい? 吉岡と付き合うよりも幸せにできる自信あるよ、俺』

 自信満々な宣言。しかし、理恵はしっかりと背筋を伸ばしたまま答える。

「幸せになれるかどうかは、まだわかんないけど……でも、あたしはやっぱりあの人が好きなの。彼氏彼女っぽいことなんか今は別にどうでもよくて、この先どうなるかもわかんないけど、とりあえず今は一緒にいたいって思ってるの。だから……ごめん。友達のままでいさせてください」

 電話の向こうからはしばらく何も聞こえてこなかった。理恵も黙り込んでいて、しばらくの間沈黙だけが三人を支配していた。やがて機械越しの声がふいに静寂を破る。

『……わかった。ごめんな、返事くれてありがとう』
「ううん。こちらこそごめん」
『理恵ちゃんは謝らなくていいよ、俺が変に突っ走っちゃったのが悪いんだから。じゃあ……お大事に』
「うん、ありがとう。じゃあね」

 電話が切れた。理恵は携帯電話を畳み、大きくため息をつく。そして震え声で、終わった、とつぶやいた。その瞳がまた潤んでいるように見えて、彩乃は思わず理恵の身体を引き寄せ、そっと抱きしめる。

「――頑張ったね、理恵。よく言えた」
「ありがと」
「一瞬だけどね、不安になった。理恵が早川のこと選ぶんじゃないかって」
「え、そうだったの?」

 理恵は意外そうな声を上げた。まるで、そんなこと考えてもいなかったとでも言うように。理恵の背中に回した腕を下ろし、彩乃は微笑みかける。

「断ってくれてよかった。ほんとに」
「……吉岡に好かれてるかどうかは、やっぱり確信持ててないけどね。でも嫌いって言われたわけじゃないしまだ一緒にいたいから、もうちょっとゆっくり付き合ってみて、それからどうするか考えることにする」
「うん……それがいいと思う」

 吉岡は理恵のこと大好きよ。そう言おうと思っていたが、やめた。それはこれから裕也が自分の言葉で伝えていかなくてはいけないことだし、理恵にも自分の気持ちを直接裕也に伝えてほしい。

「なんかあったら言ってね。あたしは理恵のことずーっと大好きだし、ずーっと一緒にいるから」
「ふふ、ありがとう。……こんなに好きって言ってくれるなら、あたし、彩乃と付き合えばよかったのかも」

 微笑みながら、理恵はそんな冗談を言った。やわらかく優しい、いつもの笑顔だった。内心でほっとしながら、彩乃もいつもの調子に見えるよう笑みを浮かべて、冗談を返す。

「もしも吉岡のことが嫌になったらいつでもおいで、待ってるから」





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