*初陣前の三年間のどこか
王都エクバターナの夜、パルスの王宮内にある王太子の部屋にて。
「すみません、殿下」
「構わないよ。むしろ楽しい、こんな時間までイサラといることってなかなか無いから」
イシュラーナは寝間着姿でアルスラーンと共にベッドの上にいた。ふかふかの布団に座っている二人の間には盤面とその上に載った二色の駒が幾つか。アルスラーンが駒を動かし終えたのちにイシュラーナは枕を抱えながら盤面の駒を進める。
「しかし驚いた。まさかイサラが家出するとはね」
「…私だって怒るときは怒ります」
そう言ってふてくされたイシュラーナの顔をみて苦笑するアルスラーン。三時間ほど前に彼女が部屋に転がり込んできた状況を思い出す。
三時間前。廊下を駆けてくる三人分の足音と同時に彼女はやってきた。ドアを荒々しく開け、そして残りの二人の足音がたどり着く前にドアを閉めて鍵をかけた。何が起きているのかわからないうちに、怒り心頭というような顔をした彼女はアルスラーンに言った。
『アルスラーン殿下!』
『な、なんだイサラ、』
『家出させてください!』
『は、はあ…』
アルスラーンはひどく驚いた。普段の様子から彼女は親――ヴァフリーズに反抗するような気配はあまり、というか小さい反抗はあれどそういう大掛かりな反抗は全くしない。また、彼女はヴァフリーズとダリューンの三人で暮らす生活を大層気に入っていた。家出などもってのほかだ。なのに彼女は今日それをやってきたという。
ドアが叩かれる。そして男二人分の叫びがドア越しに聞こえる。
『アルスラーン殿下、夜分遅くに申し訳ありません。――イサラ!お主何をやっているか分かっているのか!』
『とりあえず出てこい!』
ヴァフリーズとダリューンだ。イサラが荷物をどさっと床に落とすと抱き付いてくる。そしてドアに向かって叫ぶ。
『家出です!アルスラーン殿下のお宅に!』
『相手を考えんか!』
『殿下は確かに王太子でいらっしゃいますがそれよりも先にお友達です!』
『とにかく帰ってこい!――伯父上が噴火する前に!』
『もう噴火しとるわ!』
『かーえーりーまーせーんー!』
ドア越しに繰り広げられる保護者と子供の口げんかに、思わず笑ってしまう。私は父上や母上とこのような光景になったことはないから、羨ましくもある。しかしいつまでも見ているわけにはいかないので、ついに介入した。
『まぁ落ち着け、三人とも』
『殿下…』『…』『アルスラーン様』
イサラが眉を下げてこちらを見る。赤い瞳がうるむ。多分おとなしく帰れと言われる未来を描いたのだろう。しかし、残念ながらそんな気は私にはない。
『ヴァフリーズ、ダリューン。今晩だけ、ここにイサラを泊めるのはどうだろう』
『殿下?!』『そんな!』『本当?!』
『たまにはいいだろう?ヴァフリーズ』
『…しかし、』
『では父上に聞いてきてもらえないだろうか、私はここから動けない』
『…分かりました。――ダリューン、ここで待っておれ』
ヴァフリーズの気配が離れていく。しばらくしてその離れた気配が戻ってきて、許可が下りたことを告げた。
『なら問題はないだろう。幸い、イサラは着替えも持ってきているようだし…』
『…分かり申した。明日の朝までお願いできますか』
『ああ。ダリューンも、それでいいか?』
『はい』
『ならば決まりだ』
また明日、と告げれば二人は夜のあいさつをして立ち去って行った。そうして今、
「王手。――今晩二勝目ですね」
「…………」
イサラに負け続けている。素で。加減しているとかではなく、本気で負けている。
アルスラーンは自分の駒を動かしてももう終わりが見えていることを確認すると、目前の勝者に問いかけた。
「…三度目、やる?」
「………やめておきます」
イサラは横に持っていた枕を縦に持ち替え、顔を枕に埋めた。白い枕と対照的な紺の髪が枕に被さる。私は手早く駒や盤面を片づけた。
「…………殿下」
「どうした」
「…その、本当に今晩はありがとうございます」
「いいよ。さっきも言ったけど、楽しいから」
「………」
「でも、家出理由くらいは聞きたい…かな」
枕から顔が上がる。淡い光に照らされた彼女の瞳はいつにも増して濃い赤色をしていた。
「私は髪を切りたいのです。短くしたいです」
「………え?」
想定外の言葉にぽかんとした。
「イサラ、もう一度」
「二人は、私に髪を切るな、伸ばせと言ったのです」
「……………それだけ?」
「そうですが」
「…そうか。そうなのか…あははっ」
あまりにも想像しがたい家出理由に思わず笑いがこみ上げる。なんだ、あの二人が嫌いになったわけではなかったのか。
「なんで笑うのですか!私にとっては大事な問題です!」
「ごめんごめん。ついね」
「ついって何ですか全く!――私の髪は普通の色ではないのです、だから短くして目立たないようにって思うのは当たり前のことです!」
おや、そんな理由だったのか。アルスラーンは笑うのをやめ、真面目に赤い瞳を見つめる。
「イサラ。私はぜひ、長い髪のイサラを見てみたい。だから、もう少し伸ばしてみないか?」
「………でも、」
「普通じゃないとかそういうのは関係ないさ。イサラの髪は綺麗だし、さらさらしている。珍しい色もとてもよく似合っているし、きっと長いほうが似合うと思うんだ。だめ?」
イサラが黙り込む。たっぷりと黙り込んで、まさか目を開けながら寝たのか?と疑う程度の時間がたった後、ぼそりと呟くように言った。
「………伸ばします」
「?」
「伸ばしますと言ったのです。殿下が褒めてくださるのでしたら」
そう言って顔を枕に埋めたイサラ。
「そうか。それはよかった」
私は満足した顔で、返事を返す。
「楽しみにしてるよ」
「…はい」
翌朝。すっかり機嫌を直した彼女は、迎えに来たヴァフリーズに連れられて帰って行った。私の前できちんと謝罪し、髪を伸ばしてみようと考えたことも伝えた。それからしばらくして、髪を伸ばした彼女に髪飾りを送ろうかと私が考えたのはまた別の話。