また朝から事件解決の功労者となった、詳細不明と巷で話題のヒーローである彼もしくは彼女ーーエルセロムは臙脂色の大きなリュックを背負って、ごつい腕輪のような手袋の留め具に仕込んだワイヤーを利用し振り子顔負けの振り幅で空を舞う。ちなみに今日は個性すら使わず、個人の身体能力だけで解決したーーように見せかけることに成功した。つまり、情報隠蔽は完璧。
本当は暴れまわる敵の足元に一瞬だけワックスを作りだしただけだ。
知らなくていいが、植物系さとうきび蝋の主な成分はパルチミン酸ミリシルで、主な元素は炭素と水素と酸素。空気中のそれらを操作して作り上げたが、これが大変だった。体術でいなす時間は正直生成のためだけの時間で、顔面を殴られそうになる寸前に完成したので、あと少し遅ければ顔に傷がついていた。危ない。
そんな難しいことはさておき、エルセロムはあるベランダに飛び降りると窓をノック。しばらくしないうちに不機嫌そうな、ちょっとボサッとした格好をした男がベランダの側へとやってきて、カーテンを開ける。彼は外に立つヒーローを見て一瞬固まってから、
「ーー早く入れ」
窓を開けて部屋に上げた。ありがたいと呟くように言ったエルセロムは部屋に入り、カーテンまできっちり閉めたあとにゴーグルを下げ、ニット帽を外す。まつ毛の長い綺麗な目と、セミロングヘアが現れ、先ほどの性別不明から女性へと一瞬で変化したエルセロムの顔が、申し訳なさそうな表情になる。不機嫌そうな男ーー相澤の眉間のシワが深まった。
「すみません、朝から」
「その格好で通勤するなよ」
「いやあ、事件解決してきたものですから」
洗面所お借りできます?ああもちろん、お風呂は使いませんから。汗かいてないですし。そう言って洗面所を己の更衣室として立てこもった若者ーー彼女を見て、呆れながらストックの10秒メシに手を伸ばす。そして待ち時間を少しでも寝袋で過ごそうとした時、オフィスカジュアルな格好に変わった彼女が出てくる。相変わらずの早着替えだ。セミロングの髪は下ろして、華奢な身体を包むブラウス、膝下にボタンがアクセントとして付けられたクロップドパンツを着ている。先ほどまでの性別不明な格好からは想像のつかないであろう見た目になった彼女は、俺が手に持つものを見て困ったように眉を下げる。
「栄養バランスの合理性を考えるなら、きちんと食品から摂取しないといけませんよ」
また言われた。
彼女はやけに食事にこだわる。何としても自分で1日2食分は作り、五大栄養素やらミネラルやらのバランスを全力で考えて食べ物を食べる。確かに彼女の料理は美味しいし、その世話になったことも幾度かある。だが、その考える手間やら作る手間やらを考えると、
「ーー非合理的だ」
「今の食生活が未来の体を作るんですよ?ヒーローは体が資本ですからきちんと食べなきゃ」
彼女が説教モードに切り替わりそうになる。それを止めるために、左腕の腕時計の位置を指をさし、無言で訴える。すると彼女は自分の腕時計を見て、あ!と叫ぶ。
「行くぞ。俺まで遅刻はごめんだ」
「はい!」
しめた。彼女の非合理的説教を逃れたと、彼女を引き連れて外へ出た。
時間が過ぎ、場所も変わって雄英高校。エルセロムだった私は1-Aの教室へ向かう。
真新しい制服に身を包み、ウキウキわくわくしながら教室に入っていく1年生のみんなは見ていてとても微笑ましい。
私は教室を覗き、相澤先輩に視線を送る。すると、こちらに気づいた彼は入ってきていいぞ、と言ってくれたのでドアを開け、中に入る。ざわめいていた生徒達がこちらを見たので、えらいなぁと思いながら相澤先輩の隣に立った。
「こちらの先生はお前達の一般科目でも社会科を担当する先生だ。ーー頼むわ」
「はい。ーーご紹介に預かりました、佐倉成実です。私はヒーロー科の社会科を担当しています。一般教養ーーこの社会を生き抜く上で一番欠かせない知識ですから、皆さん一緒に頑張っていきましょうね。あと、私は皆さんの相談役にもなっているので、相澤先生やその他の先生で言いにくいことがあった時は、ぜひ私のところに来てください。できる限り、皆の学校生活が楽しく有意義になるようサポートしますから」
どうぞよろしくお願いします、と頭をさげる。パチパチと拍手をもらい、少し照れる。人前で話す、これだけは何年教師をやっても慣れない。一人の男子生徒が手を挙げたので、すでに覚えた名簿一覧から顔と名前を一致させ、名前を呼ぶ。確か彼は、
「なんでしょうか、上鳴さん」
「佐倉先生はヒーローじゃないんすか?」
ーーいきなりそこ聞いちゃうかー
笑顔が引きつらなかったか少し心配だが、とにかく私はテンプレの、うやむやになるような返答を返す。
「ヒーロー資格は持っています。ですが、皆が皆あたりまえのようにヒーローになるわけではありません。私のように大学に行って教師になる人や、他の夢を叶える人もいます。ここに座る皆もそれは同じです。もしヒーロー以外にやりたいことができたとき、自分がどうしたいかを考えて、未来を選択してくださいね。困ったときは、お手伝いします」
峰田…くんか、彼が凄い目でこちらを見てくる。そんなに気になるか、私の正体…。
結局他に聞かれることもなかったので、私はでは、と会釈して教室を出て行く。…心臓に悪かった。そうして何もなかったと安堵する自分をひどく滑稽なものに感じる私がいる事は否定できないことだった。