時は少し戻る。
響き渡った拍手――それにしては不規則で独特なリズムを刻むそれに乗せられたのは悪意だと気づいた。そんな嬉しくもない賞賛とともに現れた彼女、50代以上に見えるその女性の敵はどうやら、ここを襲撃した輩の最後の一人にしてトップらしい。
さて、どうやって捕獲したものか…そう考えていたが、突拍子もない発言に相澤は固まることになる。
「…お、かあ…さん」
佐倉は、こいつは、今何を。
「――母親だと?」
まさか。こいつの両親は警察官だと聞いている。勤務地はこいつの出身の神奈川で、静岡は管轄外だ。違和感を呑み込めないまま、次にはとんでもない事実を突きつけられる。
「ええ。私はそこの女の子――×××の母親よ」
答えを言われてみれば、だった。
彼女の目の色と形、微笑みのその雰囲気は、こいつそのものだ。
さすがに思考が止まる。しかし隣で悲鳴を上げて崩れ落ちた佐倉に呼び戻されるように復帰し、とりあえず思考を放り出して、声をかけ――手を払いのけられる。
「――佐倉、」
「いやよいやよいや!!怖い!やめて!!助けて!いや!」
触れるにもはねのけられ、声も届いていないようだが、何より普段のこいつからかけ離れた子供のような悲痛な叫びに戸惑う。わずかに覗く首筋には冷や汗が滲み、恐怖によりガタガタと震えるその身体には異様なほど力が入っていて、先ほどはねのけられた手がじんじんと痛みを訴えている。
「あら…そこのあなた、もしかして知らないの?」
「…ああ、知らないな。こいつの名前は佐倉成実だし、両親はともに存命で警察官やってるはずだ」
「それは違うわね。教えてあげましょうか」
それから聞かされたのは、佐倉成実の幼い日々の話だった。
彼女が社会科教員にもかかわらず本職以上の化学知識を持つ理由も、個性の細やかなコントロールのきっかけもすべてそこにあった。
すべてを聞いて、思い出したことがある。
12年前、某日の放課後。下校しようと構内を歩いていた俺は、1人で広場に設置されたベンチに座って何かをしている生徒に気づく。普段ならスルーするが、見た後ろ姿はとても覚えにあるもので、思わず立ち止まる。
「……あいつ」
バッサリ切った短い髪を束ねた彼女、ヒーロー科一年の佐倉成実。思わず彼女の方に足を向けていることに気がつき、相澤は舌を打つ。
――帰ろうと思っていたのに何をしてんだ俺は…
近づいて肩を叩けば、佐倉成実は面白いように肩を揺らしてこちらを向き、何事という顔をしている。そして俺の顔を見て、目をパチクリさせる。
「あ…相澤先輩」
「久しぶりだな、佐倉成実。体育祭以来か」
簡素なあいさつを交わし、俺は視界がとらえた光景に対する疑問を直球で彼女にぶつける。
「それより何してる。手に持ったものは何だ」
「サポート科の友人に作ってもらった練習道具です。私の個性は分子を操作するもので…これは湿度計が付いていて、致死量になると吸いすぎ!とか与えすぎ!とか言ってくれる優れものなんですよ。私の個性のコントロールが上手くなるようにって」
「湿度…水か。――ああ、だから体育祭のあの大波を瞬時に気化させられたんだな」
「はい。ただの水でしたから容赦なく」
よく見ると緩い感じのキャラクター(製作者の自作のようだ)の人形のようなそれは、彼女の個性に合わせて水を吸い上げて膨れたり、一気に乾燥して縮んだりとせわしない。見た目があれだが、機能は申し分ない。製作者の技量に素直に感心していると、遠慮がちに声をかけられる。
「あの、相澤先輩はどんな個性なんですか?」
「…保健室の婆さんから聞いてないのか」
「いえ、直接お会いした際に聞けばいいかな、と…」
なんだ、俺が個性を一方的に知っていただけか。なら、実演して見せれば納得するだろう。
「…じゃあお前、それを壊す勢いで水分抜いてみろ」
「ええ?!」
「いいから」
彼女の手をじっと見つめ、いつ個性が発動してもいいようにあらかじめ個性で封じておく。髪がざわめく。
そして彼女の手が少し震えたとき、拍子抜けした声が手の持ち主から発せられる。
「あれ?」
「俺の個性は抹消。――お前の個性を消せる」
まあ限定的なんだがな、と付け加える間、彼女は驚いたようにじっと個性の使えなくなった手を見つめる。かなりの時間を沈黙が支配し、
「………すごい魅力的な個性ですね」
ようやく口を開いてそれだけを言った。衝撃だったらしい。
その日はそれで解散したが、彼女と俺の不思議な組み合わせは俺が卒業するまでしばしば続いた。
そのうちのある日、俺は聞いた。
「俺としてはその優れた個性のほうが魅力的だと思うがな。体育祭ではなんで披露しなかった」
彼女の表情が見る見るうちに変わるのを見て、やっちまったと思った。
なんとなく口にした疑問は、どうやらタブーだったらしい。
「……個性が、…個性を人に向けるのが怖かった、から…です」
「怖い…か。これだけ精巧にコントロールできるんだから、お前ならどうにでもなったと思うんだが」
地雷を踏んだのはわかった。しかしそれを踏み抜く勢いで飛ばした文句は、想定外の言葉で切り捨てられた。
「私は、バケモノだから」
反射で顔を見て、その双眸に光がないことはすぐわかった。どこか遠くを見て、いや、何も映してすらいないであろうその姿に、思わず手を伸ばす。
「お前、」
伸ばした手は空を切る。彼女が立ち上がったからだ。
「――今日はもう帰ります。あまり遅くなるといけないので」
「っおい、……行っちまった」
走り去るその背中を見て、もう顔も合わせてもらえないかもしれないと思ったが、翌日何もなかったかのように話しかけてきたことを不思議に思い、そして安堵したのは遠い昔の話…だったのだ。
――ああ、そうか。
ようやく意味が理解できた、と思った。高校生のあの日、彼女が自らをバケモノだと語った理由も、彼女がヒーローであることを大多数に隠したがる理由も。
彼女は、過去の自分を受け入れきれないまま今まで生きてきてしまった。
だから、自分の個性を怖がる。彼女は過去を何も清算できていないのだ。
「…だがまあ……お前、母親だって言う割にはこいつのこと何にも分かってないんだな」
こいつの努力を、この母親は見いだせなかったらしい。
×××の昔話の間に、どうやら敵の個性が言葉で、異常なまでの拒絶反応はそれによって助長されていることが掴めた。個性を発動して母親を見てから、しゃがみこんで震える彼女の肩を抱く。個性を使ったのが分かりにくいように、わざわざ敵に背を向けて。
「昔からこいつが努力の才能の塊だったってことしか俺にはわからねえな。バケモノどころか秀才じゃねえかよ」
ゴーグルとネックウォーマーの隙間から見える彼女の頬は青白く、過呼吸気味の呼吸で体は震えている。きっと、彼女の視線の先には何も映っていない。
なあ。
「俺は知っている。毎日のように個性のコントロールを練習していたことも、勉強を頑張って社会科の知識を恐ろしい勢いで吸収していたことも」
社会科の教師として雄英に戻ってきたとき、彼女は嬉しそうに言っていたのだ。
『両親から社会のことをたくさん教わったときのあの感動を、私も生徒に伝えたい』
今の親に育てられ始めてからそれまでに選んできたのは自分自身だったはずだ。なのに、その自分の人生に自信がないのかよ。
「佐倉成実、お前はバケモノなんかじゃない。本当にバケモノなら、俺はあの体育祭の時に死んでる」
興味本位で向かった保健室で、あれだけ細やかに個性を操作する人間を初めて見た。
お前はいつだって、自分の力をよりよくするために、周りに迷惑にならないように必死に頑張ってたろ。
「それにお前は、お前がしてきた努力を恥じる必要なんざないんだ、」
仕事もできて、気立てもいい。生活力もある。
そんな女、他に知らねえよ。俺がここまで認めた上で面倒見てんだ。だからさ、
「胸を張れよ!――お前は誰だ!言ってみろ!」
ちゃんと、ヒーローになったことも、社会科の教師になったことも、自分自身も認めて楽になれ。