――――寒い。
重たい瞼を押し上げた視界は暗い部屋。小学生のわたしは本に囲まれて布団に座り込んでいる。
本を読まなくてはいけない。そう思って適当に一冊引っ張り出して表紙をめくる。
化学に浸る時間は、当時のわたしにとって、唯一生きる価値がある時間だった。生きる価値を感じる時間ではない。わたしに、生きる価値があった時間なのだ。
廊下が騒がしくなる。足音、乱雑に何かを置く音、タバコの臭い、香水の匂い。脳裏にしつこく刻まれた何かが、私から熱を奪っていく。
また、私はタバコを作る。
また、私はダイアモンドを作る。
また、また、また……
震えが止まらない。涙が意識もせずにボロボロと零れ落ちる。身体が強張る。
わたしはいつまで、こんな状態でいないといけないのか。
そもそも、こんな個性が無ければ、わたしはこんなことになっていなかったのに。
わたしは、バケモノにならなくて済んだのに――――
『昔からこいつが努力の才能の塊だったってことしか俺にはわからねえな』
…だれ?
『バケモノどころか秀才じゃねえかよ』
わたしのことを、褒めてくれるの?
思わず立ち上がる。膝にのせていた本が落ちる。ページが折れた音がした。
『俺は知っている。毎日のように個性のコントロールを練習していたことも、勉強を頑張って社会科の知識を恐ろしい勢いで吸収していたことも』
中学の制服を着る。私が見たたくさんの景色、優しい育ての親たちの笑顔。ヒーローになりたいと願ったあの日。
『お前は、お前がしてきた努力を恥じる必要なんざないんだ』
雄英の制服を着る。医者になった友人と、私の練習道具やコスチュームを作った友人と三人で並んで歩いた。入学以来、彼女たちのお陰で個性についてはたくさん練習した。先輩たちとだって、個性をきっかけに知り合い、気が付けば今に至るまでかわいがってもらっている。そこから大学に進学しても、社会に出ても、私はずっと個性をコントロールして活動してきたはずだ――――ヒーローとして。
『胸を張れよ!――お前は誰だ!言ってみろ!』
「――――っ!!!」
景色が動く。フローリングやそれを埋め尽くす雑多なものが崩れては消えて、黒い布と黄色のゴーグルが見える。
「私は、」
身体に熱が回る。
「国立雄英高校 社会科教師」
父さんと母さんがくれた私の大好きなものを教える仕事。
「プロヒーロー エルセロム」
友人たちと、先輩たちがいたからできた、私の個性をコントロールして行う仕事。
「名前は、佐倉成実」
顔を上げる。黒い衣服、肩越しから真っすぐに、過去を見つめる。
――――対象:空気中の酸素、水素。
右手はポケットへ突っ込み、左手は開いて空へ伸ばす。左手の動きを見た過去がたじろぐ。
「わたしは、私なのよ」
右手で掴んだ携帯型酸素マスクを先輩の口元へ突き出す。そして、
「私はもう、間違えない」
左手を握り込んだ。
工場内、広い部屋の中で一瞬、雨が降る。
過去が膝から崩れ落ちる。私も、意識が飛びそうになりながらも何とか指を鳴らし――――突然口元に何かを突き出される。ああ、凄い快適な空気。
「馬鹿か!!!」
「……ああ、どうも…でも…死にはしない…」
そういいつつも力が入らない。地面に正面からへばりつきたくなる身体は無理矢理、相澤先輩の手によってひっくり返された上に寝転がされ、頭の下に何かを枕として挟み込まれる。
「空気中の酸素濃度を突然下げるんじゃねえ!人類を滅ぼす気か?!」
「大丈夫…この部屋だけだし、この酸素濃度ならまだ人類は生きていける…」
「問題はやっていることだ!敵を殺す気か?お前が死ぬ気か?!」
「殺しやしませんよ。死にもしない」
突然、ちょっと標高が上がっただけだ。問題はない。ただ一瞬かつ肺の空気まできっちりやったせいでちょっと身体がショックを受けたり、呼吸をしにくくなったりしただけだ。
「私は、個性をコントロールするのは、誰よりも努力しましたから」
あなたが褒めてくれたんでしょう?
とても、嬉しかったんだから。そんなことは教えてあげないけれど。
拘束をお願いできますか、と言えば、先輩はため息を吐く。
「ああ分かった――――次からは、もっと創意工夫を凝らせ」
先輩の捕縛布が擦れる音を聞きながら、瞼を閉じた。
それから数時間後、私が目を覚ました時にはすべてが処理された後だった。
敵は無事に逮捕。酸欠状態になったもののすぐに回復、後遺症は一切なし。現場となった化学工場は解放され、復旧作業に入っている。最後に私が目を覚まし、特に異状もないため無事帰宅となった。ただ、塚内さんからは直接、エンデヴァーや相澤先輩からはメッセージで「明日は休め」と言われてしまった。家に帰って鏡を見て、あまりにもひどい顔をしていたので、素直に従うことにした。――――幸い、授業内容はどうにかなる。
翌日、学校を休んだ私のもとに育て親の2人が訪ねてきた。息を荒げて私の部屋に転がるかのように駆け込んできた2人は、私の無事な姿を見て涙を流し、良かったと言ってくれた。
2人とも職場は警察だ。きっと昨日のことは詳細まで知っているはずだから、私が五体満足なのは知っていたはずなのに。
「自分で見て触ることに勝る安心はないんだよ」
「成実がいなくなったらどうしようかと!!私たち寂しくって悲しくって壊れちゃうわ…!!」
2人に抱きしめられながら、ほろりと涙を零す。
「ありがとう。大好き――――父さん、母さん」
もう、私は大丈夫なのだと思う。