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 通路の奥、重たい大部屋の戸を引き開ける。しかし、中は一点だけ明かりに照らされる以外は何も把握できず、まるでそこに立てと言わんばかりのセッティングになっている。暗闇に手を伸ばしても触れるものは何もなく、工場にあるはずのものが何もないようにすら見える。

「ここには、何台もの大型機械があったはずです」
「…明るい範囲を増やせるか?」
「ケミカルライトのウルトラオレンジ持ってます、ただ数本しかないうえに10分程度しか保たない」
「…保留だ、ほかの手段を探す」
「はい。しかしまあ、まさか本当にボス部屋――」

 なのではないか、という続きは口から出なかった。本能的に感じ取ったかすかな殺気の方向からこちらの位置関係を瞬時に割り出し、ポケットから大量の炭素とホウ酸団子を地面へと投げながら先ほどの炭化ホウ素の壁を構築する。ドーム状にはできなかったが、かろうじて壁となれたそれは問題の方向から飛んできたモノを鈍い音とともに防ぐ。

「まじでボス部屋かよ」
「トラップルームかも」

 そう言った瞬間に部屋が明転する。明るさに慣れない目は痛みを感じつつもゴーグルの補助機能で瞬時に視界を取り戻す。
 不思議なことに、私たちの硬直時間を攻撃されることはない。それどころか、先ほどの殺意とは別のところから、水の入ったペットボトルと、木炭、何か書かれた紙が落とされる。紙を慎重に拾い上げて中身を読むと、『ブドウ糖を作れ』と書いてあった。

「理論上はやれるが、現実無理だろ」

 相澤先輩のその言葉の通りだが、

「ブドウ糖の化学式はC6H12O6、元素だけの操作ができる私ならさくっと作れますね」

 紙の裏に化学式を手持ちの黒鉛で書き付けると、水から水素と酸素を作り、木炭から炭素を作る。それらの分子をさくさく繋ぎ、私の手の中にはブドウ糖の粉末が現れる。

「完成」
「お前人類やめてるだろ」
「だまらっしゃい先輩」

 完成の喜びに浸っていると、C5H4NC4H7NCH3とだけ書かれた植物の葉がまたも違う場所から飛んでくる。

「何だこれ」
「タバコの葉。――その示性式はニコチン、アルカロイドの一種、有毒物質。猛毒ですから先輩手離したほうがいいですよ」
「先に言え」
「すみません、」

 癖なもので、と続けようとした自分に驚く。

 何故、私はこれを返答がテンプレ化するまで答える習慣がある?
 ブドウ糖だってそうだ。私は中学も高校も、それについて学んだ覚えはない。なのになぜ?
 調べたこともない、知ろうと思ったこともない。なのに、なんで私は知っているのか。

 いつの間にか吹き出し始めた冷や汗をぬぐう。何かが動く気配を感じ、次に来るのはなんだ、と身構えた私たちに贈られたのは想定外のもの。


「さすがねえ」

 炭化ホウ素の壁の向こうから聞こえるその声。先輩と目配せをしてから壁を解体すれば、壁の向こうにいた何かから拍手が送られる。ただ、拍手にしては不規則で独特なリズム。記憶の底から震えあがる何かに、私の思考は掬い取られる。

 おかしい。まって。私はこれを知っている。
 そう、確か――これは、私が私になる前の、

「――っ、…お、かあ…さん」

 壁の向こうにいたその何か――敵は、私がよく知る人物。今まで忘れていたけれど、私にブドウ糖の生成をできるようになること、たばこを作れるように成分まできっちり教えては反復練習させたのはまさにこの人だったはずだ。
 佐倉成実の知らない私が過ごしたあの場所にいた、わたしの、

「ええ。私はそこの女の子――×××の母親よ」

 母親という言葉に反応した身体が動きを止める。気持ちの悪い汗が身体を伝い、遠い昔の記憶が金縛りのように絡みつく。身体が沈む。景色が歪む。――先輩が、見えない。

「ああ…!そんな!――いやよいやよいや!!怖い!やめて!!助けて!いや!」

 何もないはずなのに身体を掻きむしる何かを振り払って崩れ落ちるようにしゃがみこんで身体を縮こまらせる。そうしても浸食されるその感覚に悲鳴を上げる。誰かがわたしに何か言ってくる。わからない、何を言われているんだろう。

「あなたはバケモノだもの」

 はっきり聞き取れるのは、おかあさんの声だけで。

「それは違うわね。教えてあげましょうか」

 それはそれは懐かしい、わたしの幼い日の記憶。
 一見暖かいようで、逃れようのない冷たさを孕んだ、恐ろしい記憶。




 壁一面本棚に囲まれた狭い部屋。本と小さな布団しかないそこが、わたしの生活する部屋だった。

『なあに、お母さん』
『×××、本読もっか』
『読む!』

 原子周期表に始まり、元素と分子の化学式、電子、クーロン力、分子の構造変換、有機化学、無機化学………エトセトラ。

 わたしに手渡される本は、いつも化学の本だった。幼い頃から化学の知識を教えられ、専門書も何冊か手渡され、それを読む日々。そして、その知識を使って個性を発動し、母親の言う物を作り続ける。
 こんな生活が日常だった。
 そのお陰か、わたしは小学校中学年の時にはすでに個性で難しい構造の分子を作るのは余裕なまでになっていた。もちろん、構造変換で生まれるものも作り上げることができた。そんな化学の知識だけを持った娘に仕立て上げた母親が望んでいたこと。

『タバコとダイヤモンドを作って』
『どうして?』
『大事なことだからよ』
『…わかった』

 わたしは言われた通りに作れるものを作り続けた。大量の完成品を持った母親が毎日出かけていくのを見た。日に日に煙たく、かつ派手で煌びやかな格好になっていく母親。時折私にブドウ糖を作らせては、それをわたしに舐めさせた。今思えば、そうやって命をつながせていたのだとわかる。化学の知識しかなかったわたしに、彼女が何をしていたのかはわからなかった――血まみれになって警察に保護されるその日まで。

 その日は、やけに調子が悪かった。息苦しくて、喉の奥で血の味がするような気がした。手足がしびれて、体のだるさがひどい。
 いつも通り母親に同じことを言われた。
 しかし、いつも通りでないわたしは初めて口答えした。

『わたし、今日作りたくない。なんか調子悪い』
『何言ってるの?言うこと聞いてくれない子は嫌い、いらないわ』
『っ、だっていつも言うこと聞いてるから、』
『だったらいつものようにしてなさい』
『はい――じゃない…、やだ…!調子が悪いの…!』
『うるさい!とっとと作れよ!』

 叩かれる。フローリングに尻餅をつき、打った腰と叩かれた頬が痛む。続けざまに胸倉を掴まれた。反射で母親の腕に手をかけ、目を瞑り、恐怖に身をすくめ、わたしは叫んだ。

『やだ!!!』

 明確な拒絶。そして、それは引き金になった。
 わたしのものでない呻きがあがり、胸元の手や腕がわたしから力なく離れる。恐る恐る目を開けると、真っ先に見えたのは真っ赤な鮮血の色だった。

 母親の顔にかかった赤色。
 母親の腕で流れ出る赤色。
 わたしの目に主張する赤色。

 何が起こったのかわからなかった。
 唯一理解できたのは、母親が恐ろしい形相でこちらを見ていたこと。

『何してくれるのよ………バケモノ…!!バケモノ!!!』

 わたしを掴んでいたはずの腕はわたしを掴まない。否、動かせないがゆえに掴めない。
 
 自由なはずだ。逃げ出せるはずだ。

 しかし、呪詛のように吐きかけられた、母親の言葉――それが、わたしを縛る。

 わたしは、私も、きっと自由になれない。


 正直、それからの記憶は曖昧だ。意識が飛んでいたのか、それともあまりの恐怖で記憶を封じたのか、外的要因で消されたのか、私にはわからない。記憶がはっきりしているのは、警察病院で完全に目覚めた後からだ。
 警察に覚えていることを話し、警察からは私の容体を話してもらった。長期間にわたる個性の過度な使用と先ほどの個性の暴発で臓器――特に肺が傷んでいるから、しばらくゆっくり休んでほしいと言われた。

 その後、警察によって母親は逮捕され、私は罪を問われなかった。保護対象として、治療や様々なカウンセリングを受けて過ごすために横浜に引っ越し、私を養育してくれる人の元――佐倉夫妻の手で育った。新たな名前をもらい、2人ともとてもよくしてくれて、私は記憶に残るなかで一番幸せな子供時代を過ごした。

 2人は化学しか知らない私に日本史や世界史、公民、倫理など社会科目を教えてくれた。私が新しい知識を蓄えていくにつれ、私の体の傷は癒え、そうすると2人は私を連れて旅行に行って私に様々な場所を見せてくれた。

 見たことのない世界を見た気分だった。
 世界は広くて美しい。歴史的な遺産から現代の生活感まで全て。あの狭い部屋でひたすら個性を使っていた時には知ることのなかった光景。とても、とても綺麗に私の目には映った。

 それを言えば、2人はこれがあなたの生きる世界だと言ってくれた。そして、ここで私はなりたいものになんでもなれるということも教えてくれた。そんな2人は、私にとってヒーローのような存在だった。私もそんな風にヒーローになれたらいいな、そう幼心に思った。だから、勉強も個性の操作も努力してレベルアップさせて今がある。

 だが、どんなに幸せな時間を過ごしても残ったものがある。

『バケモノ!!!』

 耳の奥でこびりついて消えない、呪いの言葉。
 そして、無知がゆえに個性を悪用されたという事実。

 耳を塞いでも、走って逃げようとも、

「分かる?×××はただの人間じゃない。触れただけで人を殺す力を持った、コントロール不能の殺戮マシーン――バケモノよ」

 こうして私を追いかけてきて、首を締めようとするのだ。

恐怖は追いかける


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