大きな扉の前で案内が終わる。アッシュは使用人に礼を言って、ドアをノックする。
「失礼します、アッシュです」
おお、入れ。低い声が扉の向こうから聞こえ、アッシュは右手でゆっくり扉を開けた。中へ入ると、ダリューンとヴァフリーズが待っていた。ヴァフリーズは笑みを浮かべると、手招きをする。
「だいぶ顔色も良くなった」
「ええ。ちょっと体を動かしたくなる程度には元気です」
「それはなによりだ。…本題に入るがいいか?」
こくりと頷くと、ヴァフリーズは笑を消して真剣な表情を見せる。アッシュは来たか、と身構えた。
「アッシュ、お主これからどうするつもりか聞いて良いか」
「………何も決まってません。職を見つけるかなにかしないと生きていけないのは間違いありませんが」
「そうか」
ヴァフリーズは腕を組み、ダリューンを見る。ダリューンが頷くと、ヴァフリーズは改めてアッシュを見た。
「はっきり言うが…お主は天涯孤独、行先もない。間違いはないか」
「はい。ルシタニアには帰れませんし」
「ならば、わしらからお主に一つ提案がある」
ヴァフリーズは立ち上がり、アッシュの前に来ては手を差し出す。
「わしの娘になる気はないか?アッシュ」
「………はい?」
アッシュは想定外の事態に目を白黒させる。思考が思わず止まり、口をぽかんと開けて立ちすくんだ。彼女の周囲だけ、一瞬時間が止まった。
「お主は賢い。だから今ここで放り出されても、武器と己自身でこの先を切り開いていくこともできるだろう。怪我をしても治る傷は医者に頼めば治る、うまく生活は回るだろうよ。
だがな、それができたとしてもお主の心は一体誰が治してくれるのだ?
生きるために逃げる上で、お主はすべてを捨てざるを得なかった。パルスの料理に関心を持っている時の子供らしいお主を捨てて、いつもどこか張り詰めて思考を止めないお主は、無理をして大人になろうとしているのではないのか」
「…そう、なのでしょうか」
アッシュは俯いた。
――自分は、背伸びしているのだろうか。
分からなかった。ずっとこうして生きてきてしまったから。物心つく頃からずっと勉学と武術で生存価値を認められていたから、私には良く分からない。
「私には分からないです。こうすることが、私のすべてだったから」
「ならば、これからその狭い世界を広げていけばいい。お主は逃亡生活の間、何も見なかったわけではあるまい。外の世界の人間、様々な草木、動物、昼と夜で色を変える空、太陽と月の存在。あとはパルス料理か。とにかく、いろいろなものを見る…それだけで、もうお主の世界は少し広がっているのではないか?様々なことに興味を持つ子供のお主が、実はすぐそこまで出てきているのではないか?」
ヴァフリーズがアッシュの頭を優しく撫でる。
「アッシュ、世界は広い。見えるものがすべてではないだけに、その世界を一人で生き抜くには困難が多すぎる。だから、せめてお主が世界を広げ、進む道を決めるまでの間、ある場所で一緒に生活する家族がいてもいいと思うのだ」
「家族…」
「ああ、家族だ。苦楽を共にし、心の拠り所となり、帰るべき場所となるものだ」
アッシュの中で何かが変わった。何かはわからなかったが、それでも何かが変わったように感じた。なんとなく、この話を受け入れていいと思った。きっと、この人たちと一緒なら、楽しく過ごせそうな気がした。
しかし、アッシュの中に残る背伸びした部分が、素直に返事を返すことを妨げる。
「ですが、私はこの国の人間ではありません。もしかしたらあなた方にとって敵国の間者かもしれません。なのに、そんな人間を受け入れるのですか」
「ああ、受け入れるとも。確かにお主の身元は完全に分かったものではない。だが…無理して聞き出す必要も話す必要もない」
「何故――」
「必要を感じないからだ。それに、泣いただろう」
「?」
ヴァフリーズは冷たい子供の体を抱きしめる。
「経緯を話した時に。親に殺されかけた経験―背伸びしている状態でも涙を流せるほどの恐怖は、お主にとってよほど堪えている。そんなボロボロの状態で、お主はどこに行けよう。心配で放っておけぬ」
アッシュは震えた。心配されるなど、いつ振りだろうか!いや、もしかしたら人生で一度もされたことがないかもしれない。背伸びした部分が、降参するかのように引っ込み、本来の部分が主張し始める。
「…なら、私を捨てないで。私をちゃんと見て、家族として私を受け入れて。私を褒めて、認めて!私は私、ただの私なの!一人にしないで、一緒にいて!」
叫び始めたら止まらなくなった。涙が零れ、警戒心などかなぐり捨ててアッシュはヴァフリーズに抱き付いた。必死の思いで抱き付いてくるアッシュを抱きしめて、ヴァフリーズは言った。
「約束しよう。お主はこれから、永遠に私たちの家族だ。血がつながっていなかろうと、私はお主を全力で守るし、いつだってきちんとお主を見続ける。一人ぼっちにはさせぬよ」
アッシュは泣き続けた。今までの我慢をすべて吐き出すかのように。
しばらくして。
「落ち着いたか?」
泣き止んだアッシュはダリューンから受け取ったハンカチで涙をぬぐった。
「…はい。これから、よろしくお願いします。…と、父さん…と、兄さん」
「叔父上はともかく、俺には無理する必要ないのだぞ?アッシュ」
「いえ、兄が欲しかったので、従兄になるとはいえ喜んで呼ばせていただきます」
照れたのかふい、と顔ごと目をそらしたアッシュに、ダリューンは苦笑する。ヴァフリーズはそんな義娘を微笑ましく思いながら、そういえばと聞かなければならないことを聞く。
「何か欲しいものはないか?服などの生活必需品はとりあえず買いに行かねばならんが、ほかに何かあれば」
「そうですね…――そうだ、どうか私に新しい名前をください」
アッシュはそう言った。ヴァフリーズとダリューンは思わず互いに顔を見て驚く。
「今日から新しい私になるのです。だったら、名前も新しくしたい…です」
「だめなものか!どんな名前がいいですかね、叔父上」
「そうだな…」
だめですかね、と首をかしげながら聞いてくる彼女に、男二人は嬉しそうに破顔した。完全にデレデレである。娘もしくは従妹ができたのだから、無理もないかもしれないが。
ひらめいた、という表情をしたヴァフリーズは、彼女の名前となる単語をつぶやいた。
「イシュラーナ」
一瞬、三人の世界の時間が止まる。一番最初に復帰したのは意外にも名前を要求した彼女だった。目を輝かせ、義父に抱き付く。
「うれしいです!今日から私はイシュラーナです!よろしくお願いします!」
新たな家族という人生の転機を迎えた彼女の表情は、とても子供らしく、素直でいい笑顔だった。
こうしてパルス歴316年晩秋、ヴァフリーズとダリューンは、イシュラーナという新たな家族を迎えたのだった。イシュラーナ、10歳のことであった。